あんぽんたんの日記

四半世紀生きました

スピリチュアル無職

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先日、スピリチュアル系のセミナーに参加した。

あらかじめ書いておくと、僕はあまり信心深い方ではない。ただ、ここ数日は外が尋常でない寒さなのもあり、家で紙をめくる毎日だったので、気分転換に無料のセミナーでも行ってみるかと思いたった。やはり、人間と会話をしないと言葉の喋り方がわからなくなってくるのだ。

きっかけとなったチラシをみると、「誰でも、成りたかった自分を発見できる法則があります。」と書いてある。ふむ、うまくやれば僕も宇宙に行ったユウサクの後に続けるのかもしれない。

ちなみに、このセミナーグループの源流をたどると、20世紀の世紀末付近にあった新興宗教ブームに設立された宗教にたどり着いた。

ハーレムにたどり着く

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珍しく朝から外出し、バスに乗り、会場になっている施設についたところ、参加者は僕一人だった。その施設の中にはセミナーを主催している女性が1人、その友達(?)っぽい女性が3人がおり、いずれの方も僕よりとてもお姉さんであり、彼女らの子どもでさえ僕より年上だろうと思われた。これぞ淑女の花園。

こうして僕を待ち受けていたのは、全く世代の違う女性たちに囲まれて、初体験のセミナーに1人で参加するという、えもいわれぬ空気であった。

 

余談になるのだが、30を過ぎたあたりからスピリチュアルとか占いにハマる女の人は結構多いような気がする。一体、何の法則が彼女たちを駆り立てているのだろうか

天に身を委ねよ

早速、講習が始まった。

この話によると、人間がまわりの環境に及ぼす影響は、意識が1割、無意識が9割なので、本を読んだり講習に行って意識改革をしても、根本の無意識にマイナスのエネルギーが充満していると結局事態は改善しないらしい。要するに、頭で考えて物事を解決しようとするのはよくないようだ。一種のマインドフルネスみたいなものだろう。

そして話のスケールはどんどん大きくなり、先祖やら宇宙やらエネルギーやら波動やらという言葉がポンポン出てくる。どうやら、昨今の天災や伝染病の蔓延も、世界にマイナスのエネルギーが渦巻いていることが原因らしい。なるほど、よくわからん

ある程度説明を終えたところで、「なにか質問ありますか?」と訊かれたので、「えっと...意識と無意識の比率は何をもって1:9なのですか?」と質問したところ、「これは、そう決まっているのです」との回答を得られた。ここは理屈ではないらしい。

考えるな、感じるんだ。

求めよさらば与えられん

詳しい説明は長くなるので省くのだが(僕は宣教師ではないので)、一連の話を聞いていて一貫しているトーンはいかにして物事を「解釈」するかである。これがあらゆる宗教の根幹であるともいえる。

科学がいかに説明をつくして物事が「ただ起こる」ことを証明しても、その事実が迷える人を救うわけではないので、その意味で科学は無力であり、宗教は有力なのだろうと思った。

その証拠に参加者の、ば...いや、お姉さんはとても快活であった。

字も習う

同日、同じ会場でペン字講習もやっていたのでついでに行ってみた。

字を習うのは小学校の習字教室以来であるが、本格的に筆ペンを使ったのはこれが初めてである。毛筆とは書き心地が違ってなかなか苦労した。

 

みてください、このキレイな無職。

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育児とかいう暇つぶし

強制参加人生ゲーム

最近、自由主義に関する本をよく読んでいる。主に個人の自由を推進することのマイナス面を被った人たちへの考察を含んだ内容である。簡単にまとめると「自由に人生を選択するのは勝手だが、責任は自分で負ってください」といった風潮にうめき声をあげている人間に視点を当てているものだ。

個人的に、自由であることが至上の価値とされている世相において、「普通って何?」とか「常識を疑え!」とか「偏見を撲滅すべし」といった、どこまでも世間の良識に沿った内容は、「校則は破るためにあるのだ!」と叫ぶ中高生の思考回路と大して変わらないように思えてしまうので、少しシニカルな内容のものが読みたくなるのだ。

そんなわけで、読んだもののなかで興味を引いた本から冒頭の一文を引用する。

ある政治家がSNSで「あなたの不安を教えて下さい」と訊いたところ、「早く死にたい」「生きる意味がわからない」「苦しまずに自殺する権利を法制化してほしい」との要望が殺到した。これはディストピア小説ではない、日本の話だ。

安楽死合法化にしろ、独身男性の孤独死にしろ、日本人に多い若年層の自殺にしろ、少なからぬ主張として「生まれることを自ら望んだ訳ではない」という言論が含まれる。確かに、出生にまつわる意思責任を追求できるのは子供ではなく親である。たとえその出生が、うっかり数mmの距離が足りなかったために「デキて」しまったものだとしても、その軽率さこそが問題となる。

僕の場合としても、幼い頃から、親が育児に関する問題によって気が立っており、家庭内に殺伐とした空気が充満することが多々あったので、子供心になんでわざわざ金と労力をかけて気苦労を背負込んでいるのだろうと疑問に思ったものである。原因が子供である僕にあったとしても、そもそもそういった不安要素をあらかじめ排除するに越したことは無いはずである。

そんな出生についての僕の考えを述べてみたいと思う。

実利と切り離される子孫繁栄

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年金制度がない時代は、親の面倒は子供が見るものとされていたので、当時の人たちは生活に根付いた極めて実利的な理由から子供をつくっていた。よって「最大の親不孝は、親より先に子供が死ぬこと」という文句は道德からではなく、生活から生まれた言葉であり、そこに宗教的な教義を付け加えると『賽の河原*1につながる思想になる。


しかし、今の日本は行政によって年金なり生活保護なりのセーフティネットが手厚く用意されているので、別に子供を作らなくてもどうということはない。むしろ、育児にかかるであろう金で投資信託でも買ったほうがよほど生活の為になる。そして、現在の8050問題にあるような、就労しない子供が高齢化していく問題とも照らし合わせると、子供が資産ではなく負債になってしまう例も多分に見受けられる。結局、生まれてくる子供が社会に適応できるかどうかはどこまでいっても博打である。

こうした影響からか、近頃は子供をもたない成人が増えてきて、世間の空気も独身者や子供のいない夫婦に配慮してきたので、無神経な人間に「子供つくらないの?」と言われようものなら、あらゆる手を尽くしてその人間を村八分にすることもできる

こうしてドライな観点から出生を考察すると、「家系を途絶えさせることは許すまじ」といった前時代的な家系に生まれない限り、子供は親の暇つぶしのために生まれてくるように思えてくる。

意味への意思

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しかし、年をとって分かりかけてきたのだが、人間には繁殖欲求が遺伝子レベルで組み込まれているし、なにより、なんの目的もなく生きるには人生は気が狂うほど退屈で虚しいのだ

子供がいなかったとしても、仕事、趣味、娯楽、あるいは濃密な人間関係の内に生きられるなら気も紛れるだろうが、そうした環境にも感受性にも恵まれない人間は思いのほかたくさんいるように思う。また、そのような境遇に恵まれた人間であっても、ふとしたときに虚無感が湧いてくることはあるだろうし、そうしてせり上がってくる空疎な感情をいつか誤魔化せなくなる時がくるのが恐ろしくなるのではないだろうか。ネット上にはそうした者のやるせなさを綴った文章が至るところに存在する。

こうして徐々に年を経るにつれて己を蝕む虚無に耐えかね、なんらかの「意味」を人生に求めるとしたら、生物として最も象徴的に人生に「意味」を与えてくれるのが子供だと思うのだ。

もちろんながら、見栄、世間体、自分の複製に対する漠然とした期待、自然な性生活の結果、といった「ふんわり」とした人生観が人に子供をつくらせることもあるだろう。10代の夫婦に出産の理由を聞いたら「赤ちゃんカワイイから(笑)」とか「子供がいたら楽しそうだから!」と返ってくるかもしれない。誰もが地獄の窯を覗くような面持ちで、出産というロシアンルーレットの引き金を引くわけではない。
ただ、はたからみれば反出生の思想を持っていそうな人間でさえ子供をつくるだけの理由が生まれることもあるということがいいたいのであり、育児というとんでもなく時間と労力と金のかかる暇つぶしは、それだけの価値がある大いなる暇つぶしなのかもしれないと感じたのである。

 

「苦痛こそ生活なのだ。苦痛がなければ、いったい人生にどんな快楽があろう。」

ちなみに、一応ことわっておくと僕は子どもが欲しいわけではない。「暇つぶし」をこころみる相手もいない。よって、これらの全ては想像によるたわごとである。

 

*1:親より先に死んだ子供が、その罪を償うために、あの世のとこの世のはざまである「賽の河原」で石を積み上げるとされる伝承のこと

高学歴女子はモテないのか

昨今、女性の社会進出および進学が普通の世の中になってきて、高学歴の女性に相手が少ないことが巷で話題になっているらしい。

女性の進学がごくあたり前の世の中になり、その影響が恋愛市場にまで及ぶのは至極当然のこと。もはや女性より男性の方が「頭がいい」などという神話を信奉している人間の論理は地球平面教会と変わらない。というか、過去10~20年くらいの平均値で成績を図った場合、成績が良いのは女子のほうである。(ただし数学は男子の方が成績が高い傾向がある。)

経済協力開発機構OECD)の調査によると、男子は女子より成績が悪く、落第する生徒も多く、卒業試験の合格率でも低い。スウェーデン、イタリア、ニュージーランドポーランドといった国々ではPISAテスト(十五歳対象の国際的学習到達度調査)の読解力部門で女子が男子をはるかに上回り、一学年から一学年半も先を行っている結果が出た。

とはいえ同じ生き物。生理学的な機能に差はあれど、物質的にみれば同じタンパク質と脂肪と水の塊、ヒトゲノムからみれば性染色体が一本違うだけである。

無論、男女交際という複雑なものを「知能」という一点において割り切ろうとすることがどこまでも浅はかなのは承知の上だが、少し興味が湧いたので色々調べてみた。

 

あと、個人的な話を交えれば、僕の学校教育における偏差値は40程度なので、ここまでくると僕より頭の悪い女性の方が少ない。

そんな低学歴男子による高学歴女子の恋愛論を書いてみようと思う。

ちょっとバカな女が好き♡

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よくある議論として、男は自分のプライドが脅かされない程度の知能をもった女を好む、というものがある。実際、僕の知り合いもかつて「頭いい女ってちょっとめんどくせーんだよなーw」というようなことを話していたことがあった。

女の方でもこの辺の好みを計算に入れて、あえて舌足らずな喋り方をしたり(僕はこの喋り方がとても嫌いである)、少しむずかしい話になると、「う~ん...よくわかんない!」といって知性をアピールしない傾向が見受けられる(若い時だけだが)。メガネをくいっとあげて解析幾何学の証明を始める女は漫画かアニメの世界だから受け入れられるのである。

選択権はどちらにあるのか

だが、こうして男が知的でない女を好む傾向があるとしても重要なのはそこではない。そもそも、交際相手を選ぶ際、男と女、どちらが相手を選んでいるのかをはっきりさせる必要があると思うのだが、これは間違いなく女が男を選んでいるのだと思う。なぜなら、基本的に男女交際は男が主体的に動く傾向があるからだ。例えば、ナンパや告白やプロポーズなんかでも、女から行うことも無くはないが、どこまでも一般的なのは男からのアプローチである。婚活までくると、流石に女も受け身でばかりはいられないと思うが、それでもやはり能動性を求められるのは男だろう。

いい男を惹きつけられるかは別として、僕が思う高学歴女子の恋愛問題というのは、選ぶ側である彼女たち自身の選択が大きなカギを握っているように思えてならないのだ。

上を目指す女と下を目指す男

一組の夫婦を想像してみて欲しい。夫のスペックはハーバード卒のエリートビジネスマンで、妻のスペックは青山学院卒のお嬢様。この夫婦を想像するのは容易いが、その逆はなんだか想像できない。

高学歴女子の意見

ここで、東ロボくんプロジェクトを率いていたことで有名な、高学歴女子である新井紀子氏の意見を見てみよう。

先日友人に教えてもらった、「高学歴高収入女性専門の婚活支援」という仕事も興味深いものでした。日本の男性は、どうゆうわけか自分より学歴と年収と年齢が低い女性と結婚したがります。自分のほうが学歴と年収が低いと、相手に大して卑屈になってしまいがちなのだそうです。

言うまでもなく、この意見は整合性を欠いている。なぜなら結婚は需要と供給のもとに成立するので、「日本の女性は、どうゆうわけか自分より学歴と年収と年齢が高い男性と結婚したがります」といってもこの論理は成立する。いかに男性が結婚を求めてくるからといっても、女性の方でも無差別にその求婚を受け入れている訳ではないだろう。

そして、この「高学歴高収入女性専門の婚活支援」についてはこう続く。

高学歴かつ高収入であるためになかなか結婚できない女性が存在しています。高学歴、高収入という本来魅力的であるはずの女性に、家事や育児をフェアにシェアすることができる程度に生活能力があり、一文にもならない男の沽券には執着がなく、普通にコミュニケーションが取れる真っ当な男性を探してあげるという婚活支援というコンセプトに「なるほど!」と、ひざを打ちました。

おそらく、高学歴、高収入かつ真っ当な男性であるに越したことはないが、そうした「理想」の男性を掴めなかった高学歴、高収入の女性が結婚相手を探すサービスとしての需要を満たしている、というのが本音のところだろう。だって、どうせだったら頭がいいほうがいいではないか。

穿ってみるとこの婚活支援は、自分は高学歴、高収入「だから」相手が見つからないのだ、と思い込みたい女性への自己防衛の機能も果たしているのかもしれない。

いずれにしても、男性が「」の、女性が「」の相手を好む傾向があるのは間違いなさそうであり、こうして両者の需要を明らかにすると、相手に困るのは「高学歴の女性」と「低学歴の男性」である。

愛こそ正義

ここで、両性の異性に対するアプローチを考えてみたいと思う。

男性の場合は、自分の経済力、学歴、職業、地位などで自身の魅力を誇示することに抵抗がないが、女性の場合はその傾向は強くなく、どこまでも身体的な魅力を重視しているように見える。ランボルギーニに乗って男を口説こうとする女を想像すると徹底的に違和感がある。

しかし、その割には露骨に体目当ての男を女は蛇蝎のように嫌う(男なら大喜びするのに!)。

こうした傾向を鑑みるに、女性の場合は、どこまでも金や学歴や身体ではなく、「」をみて欲しいのではないかと思う。夫婦間のやりとりに例えると、「俺はお前の何なんだ!」と叫ぶ夫はなんだか情けないが、「私はあなたにとって何なの?」と尋ねる妻のセリフは自然に響く。

社会的な属性を重視した上で、どこまでも「私」と性愛を切り離せない性質上、女の結婚に対するハードルは無限に高くなる。なぜなら、見栄えのいい世間体をそなえ、生活力があり、人間として真っ当であり、その上で「私」を大事にしてほしいのだから。

その点男は簡単で、女は若くてかわいければいいのである。もっとも、それなりに年齢を重ねて、結婚を生活として捉えた上で実利的な面から相手を求めればその限りではないが、そんな男でさえ、膨大な資産をもったら若くてかわいい女をあさり始めると思われる

 

こうして考察を重ねた結果、高学歴女子の問題というのは、そもそも相手にもとめるハードルの高い女性の恋愛観に、さらに知性がプラスされると必然的に相手が少なくなるということだと思われる。わかりきっているだけに結論がショボい。

男自体はたくさんいる

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残酷なこの世の縮図

ここからは補足になるが、日本の生涯未婚率はどんどん上昇しており、全体として比率をみると恋愛市場は「男余り」である(そもそもの数からしても)。理由は色々あるにせよ、お見合い文化も廃れてきて、自由恋愛という言葉が死語になるくらい自由に相手を選べるようになったら、モテる男に人気が集中するのは仕方ないような気がする。

女にとって男とは「いい男」なのである。

 

祭事地獄

明けましておめでとうございます。

正月、母親がつくったお雑煮を食べながら、毎年、餅は老人を冥土に送っていることを思い出した。いつも思うのだが、ここまで和やかに人を殺す日本食は珍しい。年明けと同時に天国の幕開けである。

news.yahoo.co.jp

元日から葬式の準備にとりかかる遺族はさぞかし忙しいだろうと思う。

いきなり冒頭からあの世の話をするくらいに僕は年末年始の空気に疲れた

年末の絶望

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年終わりから年明けにかけては祭事や宴会が多い。クリスマス、忘年会、新年会、正月、帰省先での飲み会等々。外出したら、いつもよりも賑やかな空気がそこかしこに漂っていた。

しかしこの期間、僕が関わった人間は家族のみでとくに面白いことはなかった。

僕が中学生くらいのころ、この季節に公園でワンカップをあけるオヤジをみていつも不思議に思っていたのだが、今ならそのオヤジの気持ちがよく分かる。家にも外にも居場所がないのだろう。

こうして人間は無敵になっていくんだろう、しみじみそう感じた。

はやく核兵器を使った花火大会が始まってほしい。

比較はやめるべき?

家族がいるだけいいのかもしれない、友達がたくさんいることがいいことではないかもしれない。そんなつぶやきが慰めのように湧いてくる。実際、なにやらありがたそうな人生訓を散見していると、「人と比べるのをやめましょう」という教えは多い。

僕自身、10代前半の頃は「植物になりてぇ」とか「はやくジジイになりてぇ」といつも思っていた。こうした境地に至れば、煮えたぎらんばかりの劣等感や情動から開放される気がしていたのだ。

なので、世捨て人による古典『方丈記』、『徒然草』なんかに通づる厭世観は、著者の見識が深いこともあり、とても共感できる。

しかし、最近の心境の変化として、このように達観して悟りを開いてしまったら、それこそ全てが味気なくてつまらないものになるのではないかと思った。また、このような隠居に至らずとも、ある程度人生を生きると、多くの人が人生の妥当な落とし所を考え始める。

その典型的な文言として、「凡人には無理ですよね」「年取ると色々考えちゃうよね」「ほどほどがいいよね」「普通が一番」などが挙げられる。僕はこうした分相応をわきまえた発言を見るたびに、その人の人生が余生に差し掛かっているような哀愁をかぎとってしまう。いや、それでも一向にかまわないのだけど、あまりにも普通すぎて面白くはない。

よって、あえて小学生の如き精神構造にとどまりつつ、生き恥を晒し続ける生き様も悪くないと思うようになったのだ。そのほうがあほらしくて面白いから。

あえて猿を目指す

この動画は、動物も不平等を感じるかどうかの実験映像である。

2匹の猿を仕切った檻の中に入れて、向かって右の猿にぶどう(おいしい)をあげて、左の猿にはキュウリ(しょぼい)をあげると、左の猿が怒り始める。怒り方がかわいい。

youtu.be

これをみて、たかだか人間関係に恵まれない「程度」のことでネチネチ書いている僕の中身は、左の猿と大して変わらないのかもしれないと思った。

お祓いをうける

元日は神社にいってお祓いを受けてきた。実家にいなければまず行くことのないイベントである。

この行事を冷静に考えてみて、古代のエジプト人が決めた日付に沿って、これまたよくわからない昔の人が神社で行っていた慣習を儀礼的になぞるだけだと真っ先に考えてしまう人間には、信仰心もなにもあったものではない

そんなこんなで神社に向かい、神主が白いふさふさを振り回して呪文を唱え終えた後、願い事を祈るタイミングがあったのだが、何も思い浮かばず、「仕事がみつかりますように...いや、仕事したくないな...なんかもうどうでもいいやぁ」となげやりなことを祈ってしまった。

おみくじは中吉。

締めの言葉が思い浮かばない。なんかもうどうでもいいやぁ

秋田美人展覧会

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先日、地元の不満をぶちまけたので、いいところもアピールしてみようという殊勝な気持ちが湧いた。

otuyanioyatsu.hatenablog.jp

秋田の女はめんこいのか

『秋田美人』ということばを御存知でしょうか。

秋田は、京美人、博多美人と合わせて日本3大美人に数えられる美人県と言われています。なので、県外で秋田出身と自己紹介すると、たいてい「美人多いの?」と聞かれます。個人的には見慣れた顔立ちなので、「落ち着くなぁ」くらいの印象です。

女性芸能人だと、『佐々木希』『壇蜜』『生駒里奈』などが有名ですね。

 

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その由来については、ロシアの血が入っているだとか、日照時間が短いので肌がキレイだとか、かつて茨城から秋田に転封(左遷のようなもの)された佐竹義宣という大名が、はらいせに地元の美人をさらって秋田に移住しただとか諸説あります。

ちなみに、茨城はその後「水戸ブス」といわれているので、一応筋は通っています。

そんな秋田では、2011年から毎年、秋田美人を集めた『秋田美人ポスター』なるものが作られていて、秋田県内の商業施設やイベントスポットに貼られているのですが、その歴代のポスターを鑑賞して、われわれは秋田美人の真偽を確かめることにしましょう。

歴代ポスター

2011

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2012

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2013

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2014

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2015

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2016

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2017

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2019

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2020

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2021

秋田美人の本気

お気に入りの美人が見つかりましたでしょうか。

直近の2021年のポスターを見て、彼女たちが競走馬なら、僕は2-1-3の3連単で賭けます。

マジレスすると、公式HPでは所属事務所や本名が公開されていないので、秋田出身じゃないモデルが混じっている可能性がありますが、ここはひとつ美人の顔に免じて寛大になるとしましょう。

ちなみに、僕の推し秋田美人はこちら

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有名な写真家、木村伊兵衛が1953年に撮影した『秋田おばこ』という題名の写真です。撮影技術もさることながら、照明も加工修正もなしでこのレベルの美人はなかなかお目にかかれないんじゃないでしょうか。彼女は撮影当時19歳なのですが、大人びている上にちょっと日本人離れした顔立ちですね。

少し気になったのでこの女性について調べてみたところ、地元では幼少から習っていたバレエを子供たちに教えていたそうなのですが、ケガを期に代議士秘書として東京へ渡り、その後日系米国人の実業家と結婚してロサンゼルスで暮らしていたんだとか。毎年桜の季節には秋田の地元である大曲に帰省していたそうです。なんというブルジョワジー...。

拝見したのはこちらの記事です。

あの写真の秋田美人はずっと海外に住んでいた | WE LOVE AKITA MAGAZINE

僕は、この女性が生粋の農家で、農作業に勤しむ様子を写真に捉えたものだとばかり思っていたのですが、全くそんなことはなく、現実には木村伊兵衛が『アサヒカメラ』で使われた彼女のグラビア写真にほれこみ、モデルになってくれるよう頼んだとのこと。なんだか華麗にお洋服を着こなす彼女の姿が目に浮かんできました。

 

今、秋田県立美術館では、この木村伊兵衛生誕回顧展が開かれていたのでそちらにも足を運んできました。

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著名な作家の谷崎潤一郎志賀直哉永井荷風の写真も撮影してたみたいで驚きました。

 

以上、毎日が氷点下、マスクの下鼻水ダラダラおじさんがお送りしました。

 

無職子供部屋おじさんから、サンタさんへ

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サンタさんへ。

 

金と友達と彼女と自由と尊厳と地位と名誉と夢と希望、この世のすべてをぜーんぶください!!

 

願いは書いたので、あとはクリスマスの朝、靴下のなかにすべてが入っているのを待つだけである。楽しみだなぁ。もうこの記事はこれで終わりにしてもいいくらいである

 

ところで、単純に欲しい物、というと物質的な意味合いが強いのだが、これは形のないものに対しても適用できる願望である。そのうちの一つ「」について考えみた。

夢とは世間体をたもったまま金を得る手段

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小学生に将来の夢を作文にして書かせると、ほとんどの子供からは、「職業」という形ではっきりとした答えが返ってくる。というかそう答えることを大人から要求される。なので、「僕の夢は世界征服!」と答えるマケドニアの大王のような小学生はいない。この他、忍者、侍、海賊王とかも金にならないのでダメである。

このことから、現代の学生の夢というものは職業選択として捉えられていることがわかる。すなわち「いかにして金をもらうか」という意味だ。それ以前の封建社会では夢(野望?)は職業選択という形で語られるものではなかった。

実際の小学生の回答を見ると、男子の場合は、スポーツ選手、医者、警察官、少しエッジのきいたものだとYoutuber、マンガ家、ゲームクリエイターなんかも入ってくるであろう。

女子の場合だと、パティシエ、看護師、保育士、教師なんかが人気になる傾向がある。

いずれにしても、堅実な仕事を除けば「有名になってがっぽり儲ける」ことが至上の価値であり、そのことによって人格まで称賛される世相なのは間違いない。

将来の夢はパパ活

しかし、金を得る手段なら何でもいいわけではない。

例えば、「私の将来の夢はパパ活です!」といってもあまり好意的には受け入れられないだろう。もちろん水商売全般、ヒモ、麻薬の売人、生活保護なんかも同様である。「お嫁さんになりたい!」も今では通用しないかも知れない。

なんでも好きなことを書いてもいいという割にはずいぶんと制約が多いのである。

こうしてみると、教育の段階で願望さえ類型化されているんだなぁと思った。

 

ちなみに僕は、小6のときに将来の夢を書く作文でなにも思い浮かばなかったので、その旨を担任に相談したら「テキトーに書いとけ」とのアドバイスを受け、『フードコーディネーター』と書いた。深い意味はまったく無く、書いている段階から目指す気のない嘘である。この時点で無職の片鱗を見せていたように思う。

大人の夢

中学、高校になるにつれ現実的な職業を視野に入れる人間が増える一方で、なんの夢や希望も持たなくなる人間も増えてくる。彼(女)らに将来の展望を尋ねると「今が楽しけりゃいいかなー」という答えが返ってくる(本人談)。

そして、社会に出て5年くらい経てば、大概の人間は夢や希望なんて青臭いことは考えもしなくなる。それを唱えられるのはごく少数の成功者か夢追い人だけ。野心がなければ、「幸せになりたい」「楽しく暮らしたい」みたいなことを呟きはじめ、少なからぬ人間が、学校教育を終えた段階での能力や運に応じた報酬を手に、何十年か生きて骨になるのである。そりゃ異世界転生したくもなるラノベのタイトルは若者の願望なのだ。

といっても、誰もがそこまで閉塞的な人生観を持っているわけではない。近代化にともなってライフスタイル自体はどんどん多様化してきているからだ。年金や終身雇用は過去のものになりつつある。

それを踏まえて、大人の夢をあげると、それは主に仕事と異性の問題にまとめられる

仕事の面からいくと、出世、キャリアアップ、起業、事業展開、早期リタイアなどが挙がると思う。異性関係では、結婚と出産だろう。どちらも能力や魅力があった上での選択肢なのは言うまでもない。

更に年を重ねると夢は、幸福、平和、健康などに波及していく。ここまでくると、もはや夢は現実から概念になる

ふとGoogleで『高齢者 夢』と検索したら睡眠障害に関するページがトップに出てきた

 

こうして考察を重ねた結果、夢は未来に矛先を向けた想像なので、精神的に若い人間、若くいることを許された人間にしか持てないものだろうと思った次第である

明日にすべてをたくす

そろそろ明日のために靴下を用意しなきゃ!(ウキウキ)

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うるせぇなぁ

田舎 + 車なし + 雪 = 生き埋め

最近、本格的に雪が振り始めた。

 

降り積もる雪を眺めながら、僕はBUMP OF CHIKENの「スノースマイル」を思いだす。

その冒頭の歌詞を抜粋。

冬が寒くって本当によかった

君の冷えた左手を

僕の右ポケットにお招きするための

この上ないほどの理由になるから

これを聴きながらおもむろに僕は、僕の右手を僕の右ポケットにお招きする

体温は自給自足。

youtu.be

あと、このバンドのボーカルは秋田生まれである。地元は結構近い。

文明から取り残される

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僕は免許を取得している。そして実家には車が2台ある。

しかし、いつも誰かが使っているので、僕はほとんど使用することがない。主要都市のように電車が身近にあるわけでもない。そして、唯一の移動手段である1万円で買ったママチャリは、雪が降ってほとんど使用不可能になってしまった。

つまり移動手段は、バスか己の足のみということである。

行動範囲がまるでドラえもんの世界のように狭い

陰キャを家に閉じ込めようとする謎の圧力を感じる

右足を踏み込むだけで移動できる鉄の塊を横目に、僕は雨の日も雪の日も2本の足で歩き続けている。最近、股関節が痛い。

 

ここらで地元の交通事情を説明すると、吉幾三が田舎を「くるまもそれほど走ってねぇ」と歌ったのとは対象的に、田舎の人は地理的にほとんど車で移動する習慣がついているので、道路をみると車に比べて歩いている人が極端に少ない。それもあってか地方のほうが都心に比べて肥満体型になる人が多いのだ。

金銭面からみても、賃金が低いのに、維持費のかかる車が必需品なのはなんとも不合理である。

おらこんな村、いやだ。

雪国からプリズン・ブレイク

こうして自分の状況をあらためて見直してみると、雪国の不便さが身にしみる。なにせ移動手段が小学生のころと変わらないのだ。

原付やバイクもこの季節は危なすぎて使用できない。

こうした状況から脱出したがる人間もたくさんいるだろうと思って、各県の人口減少率を調べてみた。

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☆のついているところが降雪地帯

上位10県のうち、降雪地帯が5県ランクイン。うち4県が東北で、我が秋田県は堂々の1位である。

圧倒的じゃないか、我が軍は

 

ちなみに、人口に対して65歳以上の人間の比率を表す高齢化率も全国1位である。

全国平均が28%なのに対し秋田県は37%なので、およそ3人に1人が高齢者。順調に推移すると20年後には2人に1人が高齢者になる計算である

悪い子すら貴重

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全国的に有名な秋田の民族行事、なまはげの有名なセリフとして

わりごはいねがー!」(悪い子はいないかー!)

という文言があるのだが、このままだと悪い子どころか子が消失する

一部の限界集落においては、60歳でも小僧らしい

おらこんな村、いやだ。

さっさと家出れば?

そんなわけで、家と職を手っ取り早く手に入れて県外進出するのであれば、工場かリゾートバイトが鉄板ではある。

おら、いやだ