あんぽんたんの日記

四半世紀生きました

育児とかいう暇つぶし

強制参加人生ゲーム

最近、自由主義に関する本をよく読んでいる。主に個人の自由を推進することのマイナス面を被った人たちへの考察を含んだ内容である。簡単にまとめると「自由に人生を選択するのは勝手だが、責任は自分で負ってください」といった風潮にうめき声をあげている人間に視点を当てているものだ。

個人的に、自由であることが至上の価値とされている世相において、「普通って何?」とか「常識を疑え!」とか「偏見を撲滅すべし」といった、どこまでも世間の良識に沿った内容は、「校則は破るためにあるのだ!」と叫ぶ中高生の思考回路と大して変わらないように思えてしまうので、少しシニカルな内容のものが読みたくなるのだ。

そんなわけで、読んだもののなかで興味を引いた本から冒頭の一文を引用する。

ある政治家がSNSで「あなたの不安を教えて下さい」と訊いたところ、「早く死にたい」「生きる意味がわからない」「苦しまずに自殺する権利を法制化してほしい」との要望が殺到した。これはディストピア小説ではない、日本の話だ。

安楽死合法化にしろ、独身男性の孤独死にしろ、日本人に多い若年層の自殺にしろ、少なからぬ主張として「生まれることを自ら望んだ訳ではない」という言論が含まれる。確かに、出生にまつわる意思責任を追求できるのは子供ではなく親である。たとえその出生が、うっかり数mmの距離が足りなかったために「デキて」しまったものだとしても、その軽率さこそが問題となる。

僕の場合としても、幼い頃から、親が育児に関する問題によって気が立っており、家庭内に殺伐とした空気が充満することが多々あったので、子供心になんでわざわざ金と労力をかけて気苦労を背負込んでいるのだろうと疑問に思ったものである。原因が子供である僕にあったとしても、そもそもそういった不安要素をあらかじめ排除するに越したことは無いはずである。

そんな出生についての僕の考えを述べてみたいと思う。

実利と切り離される子孫繁栄

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年金制度がない時代は、親の面倒は子供が見るものとされていたので、当時の人たちは生活に根付いた極めて実利的な理由から子供をつくっていた。よって「最大の親不孝は、親より先に子供が死ぬこと」という文句は道德からではなく、生活から生まれた言葉であり、そこに宗教的な教義を付け加えると『賽の河原*1につながる思想になる。


しかし、今の日本は行政によって年金なり生活保護なりのセーフティネットが手厚く用意されているので、別に子供を作らなくてもどうということはない。むしろ、育児にかかるであろう金で投資信託でも買ったほうがよほど生活の為になる。そして、現在の8050問題にあるような、就労しない子供が高齢化していく問題とも照らし合わせると、子供が資産ではなく負債になってしまう例も多分に見受けられる。結局、生まれてくる子供が社会に適応できるかどうかはどこまでいっても博打である。

こうした影響からか、近頃は子供をもたない成人が増えてきて、世間の空気も独身者や子供のいない夫婦に配慮してきたので、無神経な人間に「子供つくらないの?」と言われようものなら、あらゆる手を尽くしてその人間を村八分にすることもできる

こうしてドライな観点から出生を考察すると、「家系を途絶えさせることは許すまじ」といった前時代的な家系に生まれない限り、子供は親の暇つぶしのために生まれてくるように思えてくる。

意味への意思

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しかし、年をとって分かりかけてきたのだが、人間には繁殖欲求が遺伝子レベルで組み込まれているし、なにより、なんの目的もなく生きるには人生は気が狂うほど退屈で虚しいのだ

子供がいなかったとしても、仕事、趣味、娯楽、あるいは濃密な人間関係の内に生きられるなら気も紛れるだろうが、そうした環境にも感受性にも恵まれない人間は思いのほかたくさんいるように思う。また、そのような境遇に恵まれた人間であっても、ふとしたときに虚無感が湧いてくることはあるだろうし、そうしてせり上がってくる空疎な感情をいつか誤魔化せなくなる時がくるのが恐ろしくなるのではないだろうか。ネット上にはそうした者のやるせなさを綴った文章が至るところに存在する。

こうして徐々に年を経るにつれて己を蝕む虚無に耐えかね、なんらかの「意味」を人生に求めるとしたら、生物として最も象徴的に人生に「意味」を与えてくれるのが子供だと思うのだ。

もちろんながら、見栄、世間体、自分の複製に対する漠然とした期待、自然な性生活の結果、といった「ふんわり」とした人生観が人に子供をつくらせることもあるだろう。10代の夫婦に出産の理由を聞いたら「赤ちゃんカワイイから(笑)」とか「子供がいたら楽しそうだから!」と返ってくるかもしれない。誰もが地獄の窯を覗くような面持ちで、出産というロシアンルーレットの引き金を引くわけではない。
ただ、はたからみれば反出生の思想を持っていそうな人間でさえ子供をつくるだけの理由が生まれることもあるということがいいたいのであり、育児というとんでもなく時間と労力と金のかかる暇つぶしは、それだけの価値がある大いなる暇つぶしなのかもしれないと感じたのである。

 

「苦痛こそ生活なのだ。苦痛がなければ、いったい人生にどんな快楽があろう。」

ちなみに、一応ことわっておくと僕は子どもが欲しいわけではない。「暇つぶし」をこころみる相手もいない。よって、これらの全ては想像によるたわごとである。

 

*1:親より先に死んだ子供が、その罪を償うために、あの世のとこの世のはざまである「賽の河原」で石を積み上げるとされる伝承のこと