あんぽんたんの日記

四半世紀生きました

自己啓発本は人生の攻略本なのか

現在「自己啓発本」というワードに好印象を持っている人は少ないだろう。

あらゆるところで内容の薄さが批判されていて、紙媒体のエナジードリンクだとか、校長先生の落書きだとか、高級な便所紙だとか、言われたい放題である。

しかし、ここまでこき下ろされておきながら、未だ死滅することのないジャンルとして確立されていることも確かなのである。

かつて僕自身もこの手の自己啓発本にハマっていたことがあり、最初に読んだのは小学校高学年のときだった。親がこの手の本をよく読んでいて、本棚に鎮座しているそれを何気なくめくっていたのだが、人生の成功を約束する文言は当時の僕のふやふやな頭にダイレクトに突き刺さったこうして、10歳そこそこでこの世の真理を知ったような気がしていた僕の頭の中はアンパンマンよりも単純であった。

その単細胞っぷりを思い出すのでしばらくの間、自己啓発アレルギーを発症していたのだが、この度その内容を直に研究するべく、世論よりも己の目で自己啓発本を刮目してみることにしたのである。

自己啓発の台頭

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初心に帰るべく、この言葉の意味をたどると読んで字のごとく「己を高める本」という意味である。そのまま意味を受け取るなら古典にも自己啓発本に該当するものは多い。

しかし今回は、多くの人が想像するであろう現代のビジネスパーソンに視点を向けたものを取り上げる。カバーか帯にデカデカと筆者の顔が写っているのが目印である。

これらの起源をたどれば1990年代~2000年代に自己啓発セミナー、新興宗教と時を同じくして流行したのが引き金となり、以後少しづつ形を変えて現在に至っている。それまで重んじられていた文化、教養といったものよりも、成功や幸福を重視しはじめる時代の流れが読み取れる。

 

あと、これは僕の偏見なのだが、自己啓発本をよく読む人は真面目な人が多いような気がする。真面目な人ほど明瞭な「答え」を求めがちだからであろうか?。

自己啓発に求めるもの

ここで、そもそも自己啓発本を手に取る動機について考えてみる。

近代化した人間が好きなキーワードは有用性即効性である。要するに、すぐに役に立つことが重要なのだ。多くの場合、役に立つとは、金を儲けることであり、人間関係を円滑にすることであり、仕事で成功することであり、恋愛を成就させることである。

これを踏まえると、古典や小説は「コスパ」が悪い。これらを読んだところで金になるかと言われれば必ずしもそうではないし、日常会話のネタにするならテレビやネットのほうが明らかに役に立つ。美しい文体や奇想天外なシナリオに感動する感性は、とくに生活を豊かにするわけではない。

そこで自己啓発本を見てみると、たしかに役に立ちそうな感じがする。あくまで内容は成功と幸福に関する抽象論だが、求めるものに対する答え、及びその道筋が示されているのである。試験対策には参考書を読むように、人生対策には自己啓発と言わんばかりの内容がてんこ盛りにされている。

 

直近で僕がたまたま見た本の内容は、現代人の頭の形にフィットした悩みと欲望をSEO対策するがごとき勢いで羅列し、デカ文字で不安を煽り、世間知にのっとった無難なアドバイスが授けられるものだった。どこぞのnoteがさまよって本屋に漂流してきたかのような印象を受けた。

悪いものでもない

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しかし、ボロクソに叩かれている割には、読んでみてそこまで悪いものでもないと思った。これを読んで明るく前向きになれるのであれば特に責められるようなものでもないだろう。それっぽい雰囲気を醸し出す技術に関してはなかなか興味深いものがある。

ものによっては、ジャンプの主人公を目指すかのごとき内容の本まであり、微笑ましいとすら思えてきた。多分作者の座右の銘は、友情、努力、勝利なのだろう。

 

宗教のようで気味が悪いという意見もあるが、実際問題、聖書や歎異抄のような宗教の原典は現に誰かを救っているので別に忌避することでもない。

ただ、自己啓発本を熟読して感化された人に、全能感を漂わせながら説教をされたら鬱陶しいかもしれないとは思った。

自己啓発に対する疑問

ところで、読んでいて疑問符が残る内容が多いことも確かなので、そのわだかまりを以下にまとめてみる。

成功について

ほとんどの社会的な成功は、誰かの失敗を意味することでもある。受験、入社試験、社内競争、マーケットビジネス、あらゆる賞や大会での入賞。そして、これらを勝ち取るということは、誰かの席をもぎ取ることなのだ。成功を目指すのは個人の勝手だが、競争に固執すればするほど結果のみを重視する単純な脳みそが出来上がりそうだと思った。

偶発性について

極端な話が、日本の大学受験生のうちの誰かは絶対に東大生になるし、アメリカのIT起業家を全員競わせれば誰かはビル・ゲイツになるのである

そうしたあらゆる頂点の人間を引き合いに出して物事を語っているのは、すこし嘘くさい。起業して成功した者はチャレンジ精神豊富な人が多いかもしれないが、それは起業して破産した人を調べても同じような傾向があるだろう。掘り下げてみると単なる結果論である。

彼らの能力が高いことは間違いないのだが、その結果を得るまでの要素はとても言語だけで説明できるような代物ではない。おびただしいほどの因果関係と、とても見渡すことのできない要因が絡み合って結果は発生するのであって、どうもその複雑さを説明しているようには見えなかった。

 

ちなみに、成功に関する考察で参考になった本がこちら。

投資家と書いてあるのだが、内容は個々人の成功と運に対する考察も含まれていて、とてもおもしろい。

 

この動画が結論です。

【公式】芸人やめてぇな #8「自己啓発本を書きてぇな」中山功太 - YouTube

人生は30年

最近、人生は30年で終わりといった趣旨の記事が話題になっていた。

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この「30年」に関して言及するのは野暮というものだろう。たとえ30年だろうと80年だろうと、将来への希望的観測、もしくは悲観的観測が主観によるものだという意見に僕は賛成である。

この人の場合は、会社員として労働力を売り続けることを念頭にした人生観が出来上がっているようにみえるので、それが人生に対する閉塞感に拍車をかけているのだろう。僕も二度ほど会社員をしたことがあるが、懲役としか思えなかったので心中は察することができる。

ただ、気になったのがこの記事に対するネットの反応である。この記事の中のコメントにもあるように、少しでも人生を前向きに捉えようとする反応が実に多い。カーネルサンダースリンカーンなどの晩年から花開いた成功者を挙げて、この記事のような人生観に否定的な意見を表明する人が噴出していた。

仮に「死ぬまで青春!人生は素晴らしい!生きてるって最高!」といった内容ならこうはならないだろう。

なぜこの記事のような人生観がそこまで反感を買うのか、それを考えてみた。

死ぬまで確かなものはない

たいそう残酷だが人生には確かなものなど無い。ある人は生まれてから死ぬときまで世間的な意味での幸運に恵まれ続けるし、またある人は誰からも見向きもされず路傍の雑草のようにひっそりと死んでいく。いかに人生が主観的なものだといっても、好んで雑草のような生涯を送りたい人間は少ないだろう。

そのため、その幸運を掴んだものに対する嫉妬や憎しみが生まれてくる。全ての人間に幸運が元本保証されていたら、誰も年齢など気にしないだろう。

この幸運に対する不安を実によく表している劇作家イヨネスコの一文

死なないこと、そうなればもうだれも人を憎んだりしなくなるだろう。もうだれも妬んだりしなくなって、愛しあうようになるだろう。無限にやり直しができるようになって、時折りなにかが実現されるようになるだろう。百年に一度、千年に一度は成功が訪れて、数が多ければ多いほど成功の可能性が出るだろう。われわれには無限に運試しをするだけの時間的余裕がないということをわれわれは知っている。憎しみはわれわれの不安の表現であり、時間が足りないことの表現である。妬みはわれわれが見捨てられはしないか、滅ぶべき人生において、すなわち、生においても死においても見捨てられはしないかという恐怖の表現である。

こうして「誰もが幸運に見捨てられたくない」ことを前提にすると前向きに物事を考える人の心理がよく分かる。「誰もが何歳であろうと花開く可能性がある」と信じたいのは、紛れもなくネットに書き込んでいる自分自身なのであり、その信念を揺るがす文言を発見するとポジティブワードをフリック(タイピング)せずにはいられないのだろう。もしかすると、人生が何歳からでも遅くないと強く主張する人ほど、人生に取り返しがつかないことを薄々感じ取っている人なのかもしれない。

誰だって生まれてから今日までの時間がただ無為に過ぎ去ったものとは考えたくないので、その人生になにか客観的な意味を与えてくれる瞬間を望むのは至極当然だと思う

前を向くことの難しさ

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ただ、率直な感想として、こうしたネガティブで建設的でない意見を聞くと、反射的に批判したくなる気持ちも分からんこともない。

ネガティブなことをブツブツ唱えていても、特に何かが生まれるわけではなく、ただただ無力感が生まれてくるだけだからである。楽にはなるかもしれないが、それ以上は望めない。往々にして、その意見もただ単なるポジショントークでしか無いことが多い。この記事にしても、この人のような人生を送ったら30歳でのこりの人生が見えたような気分になるというだけのことである。「これくらいの年齢になると自分の実力がどの程度かってわかってくるじゃない」という言葉は単に視野狭窄から生まれた言葉であり、自分の可能性を広げることを諦めたその瞬間からこの言葉は真実になったのだろう。冷静にかんがえて、30歳以上の日本人は9000万人以上にのぼるが、その全員が「自分の実力」をわかっているとは到底思えない。

あと個人的な意見を申せば、消化試合に差し掛かった人生のことを「どう死ぬかを考える時間」と書いているが、明確に死を意識するような状況でもない限り、誰もが電車の通過時刻のように世を去るわけではないので考えるだけ無駄だと思ってしまう。もっといくと、生きてる内に墓石や戒名のことを考えて胸をときめかせる人の気持ちも全く理解できない。墓石屋と坊主が儲かるだけだと確信している。

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それはさておき、こうして無意味なことを考えるのはやめて少しでも建設的に物事を考えたほうがいいと思っていながらも(その方が好かれる)、誰もがいつも前向きにポジティブに明るく楽しく物事を考えられるかと言えばそこにもまた疑問符がつく。人間社会はそこまでキレイにできていないのは明らかであり、どこまでも自分の人生に可能性を感じられる「強い」人ばかりではないのも事実なのだ。

このように考えてみると、中途半端な諦観をつぶやきながら、これぞ人生の真理である、と考えるぬるくて欺瞞的な「弱さ」こそが多くの人の反感を買うのであろうが、これこそ最も致命的で解決方法がない欠点であるように思った次第である。

 

「弱さこそ、ただ一つ、どうしても直しようのない欠点である。」

スピリチュアル無職

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先日、スピリチュアル系のセミナーに参加した。

あらかじめ書いておくと、僕はあまり信心深い方ではない。ただ、ここ数日は外が尋常でない寒さなのもあり、家で紙をめくる毎日だったので、気分転換に無料のセミナーでも行ってみるかと思いたった。やはり、人間と会話をしないと言葉の喋り方がわからなくなってくるのだ。

きっかけとなったチラシをみると、「誰でも、成りたかった自分を発見できる法則があります。」と書いてある。ふむ、うまくやれば僕も宇宙に行ったユウサクの後に続けるのかもしれない。

ちなみに、このセミナーグループの源流をたどると、20世紀の世紀末付近にあった新興宗教ブームに設立された宗教にたどり着いた。

ハーレムにたどり着く

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珍しく朝から外出し、バスに乗り、会場になっている施設についたところ、参加者は僕一人だった。その施設の中にはセミナーを主催している女性が1人、その友達(?)っぽい女性が3人がおり、いずれの方も僕よりとてもお姉さんであり、彼女らの子どもでさえ僕より年上だろうと思われた。これぞ淑女の花園。

こうして僕を待ち受けていたのは、全く世代の違う女性たちに囲まれて、初体験のセミナーに1人で参加するという、えもいわれぬ空気であった。

 

余談になるのだが、30を過ぎたあたりからスピリチュアルとか占いにハマる女の人は結構多いような気がする。一体、何の法則が彼女たちを駆り立てているのだろうか

天に身を委ねよ

早速、講習が始まった。

この話によると、人間がまわりの環境に及ぼす影響は、意識が1割、無意識が9割なので、本を読んだり講習に行って意識改革をしても、根本の無意識にマイナスのエネルギーが充満していると結局事態は改善しないらしい。要するに、頭で考えて物事を解決しようとするのはよくないようだ。一種のマインドフルネスみたいなものだろう。

そして話のスケールはどんどん大きくなり、先祖やら宇宙やらエネルギーやら波動やらという言葉がポンポン出てくる。どうやら、昨今の天災や伝染病の蔓延も、世界にマイナスのエネルギーが渦巻いていることが原因らしい。なるほど、よくわからん

ある程度説明を終えたところで、「なにか質問ありますか?」と訊かれたので、「えっと...意識と無意識の比率は何をもって1:9なのですか?」と質問したところ、「これは、そう決まっているのです」との回答を得られた。ここは理屈ではないらしい。

考えるな、感じるんだ。

求めよさらば与えられん

詳しい説明は長くなるので省くのだが(僕は宣教師ではないので)、一連の話を聞いていて一貫しているトーンはいかにして物事を「解釈」するかである。これがあらゆる宗教の根幹であるともいえる。

科学がいかに説明をつくして物事が「ただ起こる」ことを証明しても、その事実が迷える人を救うわけではないので、その意味で科学は無力であり、宗教は有力なのだろうと思った。

その証拠に参加者の、ば...いや、お姉さんはとても快活であった。

字も習う

同日、同じ会場でペン字講習もやっていたのでついでに行ってみた。

字を習うのは小学校の習字教室以来であるが、本格的に筆ペンを使ったのはこれが初めてである。毛筆とは書き心地が違ってなかなか苦労した。

 

みてください、このキレイな無職。

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育児とかいう暇つぶし

強制参加人生ゲーム

最近、自由主義に関する本をよく読んでいる。主に個人の自由を推進することのマイナス面を被った人たちへの考察を含んだ内容である。簡単にまとめると「自由に人生を選択するのは勝手だが、責任は自分で負ってください」といった風潮にうめき声をあげている人間に視点を当てているものだ。

個人的に、自由であることが至上の価値とされている世相において、「普通って何?」とか「常識を疑え!」とか「偏見を撲滅すべし」といった、どこまでも世間の良識に沿った内容は、「校則は破るためにあるのだ!」と叫ぶ中高生の思考回路と大して変わらないように思えてしまうので、少しシニカルな内容のものが読みたくなるのだ。

そんなわけで、読んだもののなかで興味を引いた本から冒頭の一文を引用する。

ある政治家がSNSで「あなたの不安を教えて下さい」と訊いたところ、「早く死にたい」「生きる意味がわからない」「苦しまずに自殺する権利を法制化してほしい」との要望が殺到した。これはディストピア小説ではない、日本の話だ。

安楽死合法化にしろ、独身男性の孤独死にしろ、日本人に多い若年層の自殺にしろ、少なからぬ主張として「生まれることを自ら望んだ訳ではない」という言論が含まれる。確かに、出生にまつわる意思責任を追求できるのは子供ではなく親である。たとえその出生が、うっかり数mmの距離が足りなかったために「デキて」しまったものだとしても、その軽率さこそが問題となる。

僕の場合としても、幼い頃から、親が育児に関する問題によって気が立っており、家庭内に殺伐とした空気が充満することが多々あったので、子供心になんでわざわざ金と労力をかけて気苦労を背負込んでいるのだろうと疑問に思ったものである。原因が子供である僕にあったとしても、そもそもそういった不安要素をあらかじめ排除するに越したことは無いはずである。

そんな出生についての僕の考えを述べてみたいと思う。

実利と切り離される子孫繁栄

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年金制度がない時代は、親の面倒は子供が見るものとされていたので、当時の人たちは生活に根付いた極めて実利的な理由から子供をつくっていた。よって「最大の親不孝は、親より先に子供が死ぬこと」という文句は道德からではなく、生活から生まれた言葉であり、そこに宗教的な教義を付け加えると『賽の河原*1につながる思想になる。


しかし、今の日本は行政によって年金なり生活保護なりのセーフティネットが手厚く用意されているので、別に子供を作らなくてもどうということはない。むしろ、育児にかかるであろう金で投資信託でも買ったほうがよほど生活の為になる。そして、現在の8050問題にあるような、就労しない子供が高齢化していく問題とも照らし合わせると、子供が資産ではなく負債になってしまう例も多分に見受けられる。結局、生まれてくる子供が社会に適応できるかどうかはどこまでいっても博打である。

こうした影響からか、近頃は子供をもたない成人が増えてきて、世間の空気も独身者や子供のいない夫婦に配慮してきたので、無神経な人間に「子供つくらないの?」と言われようものなら、あらゆる手を尽くしてその人間を村八分にすることもできる

こうしてドライな観点から出生を考察すると、「家系を途絶えさせることは許すまじ」といった前時代的な家系に生まれない限り、子供は親の暇つぶしのために生まれてくるように思えてくる。

意味への意思

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しかし、年をとって分かりかけてきたのだが、人間には繁殖欲求が遺伝子レベルで組み込まれているし、なにより、なんの目的もなく生きるには人生は気が狂うほど退屈で虚しいのだ

子供がいなかったとしても、仕事、趣味、娯楽、あるいは濃密な人間関係の内に生きられるなら気も紛れるだろうが、そうした環境にも感受性にも恵まれない人間は思いのほかたくさんいるように思う。また、そのような境遇に恵まれた人間であっても、ふとしたときに虚無感が湧いてくることはあるだろうし、そうしてせり上がってくる空疎な感情をいつか誤魔化せなくなる時がくるのが恐ろしくなるのではないだろうか。ネット上にはそうした者のやるせなさを綴った文章が至るところに存在する。

こうして徐々に年を経るにつれて己を蝕む虚無に耐えかね、なんらかの「意味」を人生に求めるとしたら、生物として最も象徴的に人生に「意味」を与えてくれるのが子供だと思うのだ。

もちろんながら、見栄、世間体、自分の複製に対する漠然とした期待、自然な性生活の結果、といった「ふんわり」とした人生観が人に子供をつくらせることもあるだろう。10代の夫婦に出産の理由を聞いたら「赤ちゃんカワイイから(笑)」とか「子供がいたら楽しそうだから!」と返ってくるかもしれない。誰もが地獄の窯を覗くような面持ちで、出産というロシアンルーレットの引き金を引くわけではない。
ただ、はたからみれば反出生の思想を持っていそうな人間でさえ子供をつくるだけの理由が生まれることもあるということがいいたいのであり、育児というとんでもなく時間と労力と金のかかる暇つぶしは、それだけの価値がある大いなる暇つぶしなのかもしれないと感じたのである。

 

「苦痛こそ生活なのだ。苦痛がなければ、いったい人生にどんな快楽があろう。」

ちなみに、一応ことわっておくと僕は子どもが欲しいわけではない。「暇つぶし」をこころみる相手もいない。よって、これらの全ては想像によるたわごとである。

 

*1:親より先に死んだ子供が、その罪を償うために、あの世のとこの世のはざまである「賽の河原」で石を積み上げるとされる伝承のこと

高学歴女子はモテないのか

昨今、女性の社会進出および進学が普通の世の中になってきて、高学歴の女性に相手が少ないことが巷で話題になっているらしい。

女性の進学がごくあたり前の世の中になり、その影響が恋愛市場にまで及ぶのは至極当然のこと。もはや女性より男性の方が「頭がいい」などという神話を信奉している人間の論理は地球平面教会と変わらない。というか、過去10~20年くらいの平均値で成績を図った場合、成績が良いのは女子のほうである。(ただし数学は男子の方が成績が高い傾向がある。)

経済協力開発機構OECD)の調査によると、男子は女子より成績が悪く、落第する生徒も多く、卒業試験の合格率でも低い。スウェーデン、イタリア、ニュージーランドポーランドといった国々ではPISAテスト(十五歳対象の国際的学習到達度調査)の読解力部門で女子が男子をはるかに上回り、一学年から一学年半も先を行っている結果が出た。

とはいえ同じ生き物。生理学的な機能に差はあれど、物質的にみれば同じタンパク質と脂肪と水の塊、ヒトゲノムからみれば性染色体が一本違うだけである。

無論、男女交際という複雑なものを「知能」という一点において割り切ろうとすることがどこまでも浅はかなのは承知の上だが、少し興味が湧いたので色々調べてみた。

 

あと、個人的な話を交えれば、僕の学校教育における偏差値は40程度なので、ここまでくると僕より頭の悪い女性の方が少ない。

そんな低学歴男子による高学歴女子の恋愛論を書いてみようと思う。

ちょっとバカな女が好き♡

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よくある議論として、男は自分のプライドが脅かされない程度の知能をもった女を好む、というものがある。実際、僕の知り合いもかつて「頭いい女ってちょっとめんどくせーんだよなーw」というようなことを話していたことがあった。

女の方でもこの辺の好みを計算に入れて、あえて舌足らずな喋り方をしたり(僕はこの喋り方がとても嫌いである)、少しむずかしい話になると、「う~ん...よくわかんない!」といって知性をアピールしない傾向が見受けられる(若い時だけだが)。メガネをくいっとあげて解析幾何学の証明を始める女は漫画かアニメの世界だから受け入れられるのである。

選択権はどちらにあるのか

だが、こうして男が知的でない女を好む傾向があるとしても重要なのはそこではない。そもそも、交際相手を選ぶ際、男と女、どちらが相手を選んでいるのかをはっきりさせる必要があると思うのだが、これは間違いなく女が男を選んでいるのだと思う。なぜなら、基本的に男女交際は男が主体的に動く傾向があるからだ。例えば、ナンパや告白やプロポーズなんかでも、女から行うことも無くはないが、どこまでも一般的なのは男からのアプローチである。婚活までくると、流石に女も受け身でばかりはいられないと思うが、それでもやはり能動性を求められるのは男だろう。

いい男を惹きつけられるかは別として、僕が思う高学歴女子の恋愛問題というのは、選ぶ側である彼女たち自身の選択が大きなカギを握っているように思えてならないのだ。

上を目指す女と下を目指す男

一組の夫婦を想像してみて欲しい。夫のスペックはハーバード卒のエリートビジネスマンで、妻のスペックは青山学院卒のお嬢様。この夫婦を想像するのは容易いが、その逆はなんだか想像できない。

高学歴女子の意見

ここで、東ロボくんプロジェクトを率いていたことで有名な、高学歴女子である新井紀子氏の意見を見てみよう。

先日友人に教えてもらった、「高学歴高収入女性専門の婚活支援」という仕事も興味深いものでした。日本の男性は、どうゆうわけか自分より学歴と年収と年齢が低い女性と結婚したがります。自分のほうが学歴と年収が低いと、相手に大して卑屈になってしまいがちなのだそうです。

言うまでもなく、この意見は整合性を欠いている。なぜなら結婚は需要と供給のもとに成立するので、「日本の女性は、どうゆうわけか自分より学歴と年収と年齢が高い男性と結婚したがります」といってもこの論理は成立する。いかに男性が結婚を求めてくるからといっても、女性の方でも無差別にその求婚を受け入れている訳ではないだろう。

そして、この「高学歴高収入女性専門の婚活支援」についてはこう続く。

高学歴かつ高収入であるためになかなか結婚できない女性が存在しています。高学歴、高収入という本来魅力的であるはずの女性に、家事や育児をフェアにシェアすることができる程度に生活能力があり、一文にもならない男の沽券には執着がなく、普通にコミュニケーションが取れる真っ当な男性を探してあげるという婚活支援というコンセプトに「なるほど!」と、ひざを打ちました。

おそらく、高学歴、高収入かつ真っ当な男性であるに越したことはないが、そうした「理想」の男性を掴めなかった高学歴、高収入の女性が結婚相手を探すサービスとしての需要を満たしている、というのが本音のところだろう。だって、どうせだったら頭がいいほうがいいではないか。

穿ってみるとこの婚活支援は、自分は高学歴、高収入「だから」相手が見つからないのだ、と思い込みたい女性への自己防衛の機能も果たしているのかもしれない。

いずれにしても、男性が「」の、女性が「」の相手を好む傾向があるのは間違いなさそうであり、こうして両者の需要を明らかにすると、相手に困るのは「高学歴の女性」と「低学歴の男性」である。

愛こそ正義

ここで、両性の異性に対するアプローチを考えてみたいと思う。

男性の場合は、自分の経済力、学歴、職業、地位などで自身の魅力を誇示することに抵抗がないが、女性の場合はその傾向は強くなく、どこまでも身体的な魅力を重視しているように見える。ランボルギーニに乗って男を口説こうとする女を想像すると徹底的に違和感がある。

しかし、その割には露骨に体目当ての男を女は蛇蝎のように嫌う(男なら大喜びするのに!)。

こうした傾向を鑑みるに、女性の場合は、どこまでも金や学歴や身体ではなく、「」をみて欲しいのではないかと思う。夫婦間のやりとりに例えると、「俺はお前の何なんだ!」と叫ぶ夫はなんだか情けないが、「私はあなたにとって何なの?」と尋ねる妻のセリフは自然に響く。

社会的な属性を重視した上で、どこまでも「私」と性愛を切り離せない性質上、女の結婚に対するハードルは無限に高くなる。なぜなら、見栄えのいい世間体をそなえ、生活力があり、人間として真っ当であり、その上で「私」を大事にしてほしいのだから。

その点男は簡単で、女は若くてかわいければいいのである。もっとも、それなりに年齢を重ねて、結婚を生活として捉えた上で実利的な面から相手を求めればその限りではないが、そんな男でさえ、膨大な資産をもったら若くてかわいい女をあさり始めると思われる

 

こうして考察を重ねた結果、高学歴女子の問題というのは、そもそも相手にもとめるハードルの高い女性の恋愛観に、さらに知性がプラスされると必然的に相手が少なくなるということだと思われる。わかりきっているだけに結論がショボい。

男自体はたくさんいる

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残酷なこの世の縮図

ここからは補足になるが、日本の生涯未婚率はどんどん上昇しており、全体として比率をみると恋愛市場は「男余り」である(そもそもの数からしても)。理由は色々あるにせよ、お見合い文化も廃れてきて、自由恋愛という言葉が死語になるくらい自由に相手を選べるようになったら、モテる男に人気が集中するのは仕方ないような気がする。

女にとって男とは「いい男」なのである。

 

祭事地獄

明けましておめでとうございます。

正月、母親がつくったお雑煮を食べながら、毎年、餅は老人を冥土に送っていることを思い出した。いつも思うのだが、ここまで和やかに人を殺す日本食は珍しい。年明けと同時に天国の幕開けである。

news.yahoo.co.jp

元日から葬式の準備にとりかかる遺族はさぞかし忙しいだろうと思う。

いきなり冒頭からあの世の話をするくらいに僕は年末年始の空気に疲れた

年末の絶望

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年終わりから年明けにかけては祭事や宴会が多い。クリスマス、忘年会、新年会、正月、帰省先での飲み会等々。外出したら、いつもよりも賑やかな空気がそこかしこに漂っていた。

しかしこの期間、僕が関わった人間は家族のみでとくに面白いことはなかった。

僕が中学生くらいのころ、この季節に公園でワンカップをあけるオヤジをみていつも不思議に思っていたのだが、今ならそのオヤジの気持ちがよく分かる。家にも外にも居場所がないのだろう。

こうして人間は無敵になっていくんだろう、しみじみそう感じた。

はやく核兵器を使った花火大会が始まってほしい。

比較はやめるべき?

家族がいるだけいいのかもしれない、友達がたくさんいることがいいことではないかもしれない。そんなつぶやきが慰めのように湧いてくる。実際、なにやらありがたそうな人生訓を散見していると、「人と比べるのをやめましょう」という教えは多い。

僕自身、10代前半の頃は「植物になりてぇ」とか「はやくジジイになりてぇ」といつも思っていた。こうした境地に至れば、煮えたぎらんばかりの劣等感や情動から開放される気がしていたのだ。

なので、世捨て人による古典『方丈記』、『徒然草』なんかに通づる厭世観は、著者の見識が深いこともあり、とても共感できる。

しかし、最近の心境の変化として、このように達観して悟りを開いてしまったら、それこそ全てが味気なくてつまらないものになるのではないかと思った。また、このような隠居に至らずとも、ある程度人生を生きると、多くの人が人生の妥当な落とし所を考え始める。

その典型的な文言として、「凡人には無理ですよね」「年取ると色々考えちゃうよね」「ほどほどがいいよね」「普通が一番」などが挙げられる。僕はこうした分相応をわきまえた発言を見るたびに、その人の人生が余生に差し掛かっているような哀愁をかぎとってしまう。いや、それでも一向にかまわないのだけど、あまりにも普通すぎて面白くはない。

よって、あえて小学生の如き精神構造にとどまりつつ、生き恥を晒し続ける生き様も悪くないと思うようになったのだ。そのほうがあほらしくて面白いから。

あえて猿を目指す

この動画は、動物も不平等を感じるかどうかの実験映像である。

2匹の猿を仕切った檻の中に入れて、向かって右の猿にぶどう(おいしい)をあげて、左の猿にはキュウリ(しょぼい)をあげると、左の猿が怒り始める。怒り方がかわいい。

youtu.be

これをみて、たかだか人間関係に恵まれない「程度」のことでネチネチ書いている僕の中身は、左の猿と大して変わらないのかもしれないと思った。

お祓いをうける

元日は神社にいってお祓いを受けてきた。実家にいなければまず行くことのないイベントである。

この行事を冷静に考えてみて、古代のエジプト人が決めた日付に沿って、これまたよくわからない昔の人が神社で行っていた慣習を儀礼的になぞるだけだと真っ先に考えてしまう人間には、信仰心もなにもあったものではない

そんなこんなで神社に向かい、神主が白いふさふさを振り回して呪文を唱え終えた後、願い事を祈るタイミングがあったのだが、何も思い浮かばず、「仕事がみつかりますように...いや、仕事したくないな...なんかもうどうでもいいやぁ」となげやりなことを祈ってしまった。

おみくじは中吉。

締めの言葉が思い浮かばない。なんかもうどうでもいいやぁ

秋田美人展覧会

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先日、地元の不満をぶちまけたので、いいところもアピールしてみようという殊勝な気持ちが湧いた。

otuyanioyatsu.hatenablog.jp

秋田の女はめんこいのか

『秋田美人』ということばを御存知でしょうか。

秋田は、京美人、博多美人と合わせて日本3大美人に数えられる美人県と言われています。なので、県外で秋田出身と自己紹介すると、たいてい「美人多いの?」と聞かれます。個人的には見慣れた顔立ちなので、「落ち着くなぁ」くらいの印象です。

女性芸能人だと、『佐々木希』『壇蜜』『生駒里奈』などが有名ですね。

 

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その由来については、ロシアの血が入っているだとか、日照時間が短いので肌がキレイだとか、かつて茨城から秋田に転封(左遷のようなもの)された佐竹義宣という大名が、はらいせに地元の美人をさらって秋田に移住しただとか諸説あります。

ちなみに、茨城はその後「水戸ブス」といわれているので、一応筋は通っています。

そんな秋田では、2011年から毎年、秋田美人を集めた『秋田美人ポスター』なるものが作られていて、秋田県内の商業施設やイベントスポットに貼られているのですが、その歴代のポスターを鑑賞して、われわれは秋田美人の真偽を確かめることにしましょう。

歴代ポスター

2011

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2012

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2013

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2014

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2015

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2016

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2017

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2018

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2019

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2020

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2021

秋田美人の本気

お気に入りの美人が見つかりましたでしょうか。

直近の2021年のポスターを見て、彼女たちが競走馬なら、僕は2-1-3の3連単で賭けます。

マジレスすると、公式HPでは所属事務所や本名が公開されていないので、秋田出身じゃないモデルが混じっている可能性がありますが、ここはひとつ美人の顔に免じて寛大になるとしましょう。

ちなみに、僕の推し秋田美人はこちら

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有名な写真家、木村伊兵衛が1953年に撮影した『秋田おばこ』という題名の写真です。撮影技術もさることながら、照明も加工修正もなしでこのレベルの美人はなかなかお目にかかれないんじゃないでしょうか。彼女は撮影当時19歳なのですが、大人びている上にちょっと日本人離れした顔立ちですね。

少し気になったのでこの女性について調べてみたところ、地元では幼少から習っていたバレエを子供たちに教えていたそうなのですが、ケガを期に代議士秘書として東京へ渡り、その後日系米国人の実業家と結婚してロサンゼルスで暮らしていたんだとか。毎年桜の季節には秋田の地元である大曲に帰省していたそうです。なんというブルジョワジー...。

拝見したのはこちらの記事です。

あの写真の秋田美人はずっと海外に住んでいた | WE LOVE AKITA MAGAZINE

僕は、この女性が生粋の農家で、農作業に勤しむ様子を写真に捉えたものだとばかり思っていたのですが、全くそんなことはなく、現実には木村伊兵衛が『アサヒカメラ』で使われた彼女のグラビア写真にほれこみ、モデルになってくれるよう頼んだとのこと。なんだか華麗にお洋服を着こなす彼女の姿が目に浮かんできました。

 

今、秋田県立美術館では、この木村伊兵衛生誕回顧展が開かれていたのでそちらにも足を運んできました。

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著名な作家の谷崎潤一郎志賀直哉永井荷風の写真も撮影してたみたいで驚きました。

 

以上、毎日が氷点下、マスクの下鼻水ダラダラおじさんがお送りしました。