あんぽんたんの日記

四半世紀生きました

神奈川のほとりに引っ越す

山の見える神奈川へ

約2年ほど滞在した茨城の辺境から神奈川のほとりへ移住してきた。理由は飽きたから。同じ人と同じ環境、変わり映えのない日々に満足できる人もいる。僕はできない方の人間らしい。5年後10年後につまらないことに慣れきって身動きが取れなくなる未来が恐ろしく感じて仕方ので、ここらで切り上げておこうと思ったのだ。

気分転換に職場を変えられるのは工場派遣のいいところかもしれない。家と仕事がセットでついてきて、なおかつ仕事自体に特殊なスキルは必要ない。

引っ越しの際に色々片付けをしていると、必要のないものやボロボロになったものに囲まれて生きていた事を痛感した。習慣に包まれて生きていくと身の回りにどんどん気を払わなくなっていくみたいだ。この機会に生活を刷新したことには満足感を覚える。

茨城最後の思い出として、大洗の水族館に行って閉じ込められた海洋生物の群れを見てきた。思いのほかたくさん人がいて、もしかすると鑑賞されているのは人間の方なんではないのかと思えないこともなかった。

放浪の民

こうしてフラフラと生きていると、まるで令和版のヒッピーみたいだと思う。

一定周期で住む場所と職場を変えて、車も無ければ知り合いもいない土地で10年振りに刑務所から出たばかりの人間のような生活を始める。

いつまでこんなことをしているんだろうか。単純作業に流動的な生活。無意味に思えるような生活は少々つらい。

ボロい寮(アパート)あるある

前の住民の債務伝票が届いていた。ボロいアパートだと結構よくある。

クレジットカードの債務らしい。そこそこ金額がでかい。彼は逃げ切れるんだろうか。

HUAWEI FreeClipを買った

1か月くらい楽しみにしていたHUAWEI FreeClipがとうとうリリースされた。週末使ってみた感想をつらつらと。

概要

クラウドファンディングを募って開発された製品で、50万円の公募に5800万円が集まった注目のイヤホンです。

オープンイヤー型で装着するとイヤーカフのように見える。

装着感

着けてるのを忘れるレベルでフィットする。自分はオープン型は耳が痛くなるので使ってこなかったが、これは痛くならない。そしてカナル型のようにイヤホン自体が汚くなることもない。動いても落ちてこないし、重さを感じることもないのでストレスも特になし。

左右どちらにもつけられるので楽。

音質

オーディオオタクではないので詳しい感想を書くことはできないが、十分聴けるレベルの音質だと思った。おそらく価格帯相応の音は出ていると思う。

以前まで使っていたSONYカナル型イヤホン、WF-C700と比較するとやや低音が弱いかもしれない。しかしシャリシャリ感があるわけではない。逆音波で外の音を打ち消しているのでノイズも若干減っている。

直に耳孔に挿入していないせいか、聴き疲れしにくいと感じた。

あとマイクの性能も悪くない。

バッテリー

満充電で5、6時間は余裕で連続使用可能。

 

珍しいタイプのイヤホンで性能的にも十分な機能を備えてるのでおススメ。普段レビューとか滅多に書かないが、これは書きたくなるレベルで良かった。

最近見た映画

セッションという映画をみた。鬼軍曹のような指揮者に見込まれたドラマーの話。

パワハラ、暴力、誹謗中傷なんでもあり。目が離せない緊張感が常に漂っている。

ドラムにすべてをかけた挙句、恋人とも別れ、退学になり、何もかも失っていく主人公の生き様がよく描かれていた。内容に賛否はあれど映画自体はめっちゃ面白かった。

茨城より愛を込めて

特に込めるような愛もないがこのタイトルである。2年ほど茨城の辺境に滞在したのでそのことについて。

プライベート。無。

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現在働いている現場では、やたらに忙しい時期が長く続いていた。毎日2時間から3時間に及ぶ残業、異様に多い夜勤シフトが体を徐々に蝕んでいったような気がしてならない。そして工場と自宅の往復。時間的にも体力的にも致し方ないが、何も記憶に残らない時間を過ごした気がする。このままだとなにもない日々に埋もれながら、工場の中で老いさらばえていく気がするので転職を考えている。

彼女作りなよ!

そんな中でも発生したエピソードが一つ。

職場の先輩と起伏のない日常についての話をしていたところ、彼女を作ったら生活に刺激ができるに違いないという話になり、なんやかんやで職場にいる女性従業員の知り合いを紹介してもらえるかもしれないという流れになった。

自分のあずかり知らぬところで話が進んでいくうちに、相手がこちらの顔写真を要求してきた(らしい)。

反射的に嫌悪感が走る。

一方的に相手の顔写真を要求する無神経さは、おそらく好きになれない。しかし話を進めてしまった以上ここで引き返せないと思い、仕方なく職場の休憩所で間抜けな顔面を撮影してもらい送ってもらったところ、「面白そうだけど、車ないのはちょっとむり」との回答だったらしい。

顔関係なくね?車がないのもさることながら、顔も好みじゃなかったのだろう。面白そうとかいう雑なフォローはイライラポイント高めである。ああ、あの愚かな顔写真も知り合いやらに晒されて公開処刑されているのかと思うとなんだか具合が悪くなってきた。

結局、散々一方的に情報を引き出された挙句こっちが知っているのは相手の年齢だけ。マッチングアプリ以下の扱い。無念。

さすらいの地を求めて

上記の件は車がないことが一応決め手となったみたいだが、今の状況に車だけ付け足したとしても何か劇的な変化があるとは思えない。せいぜいイオンモールに行きやすくなるくらいが関の山だろう。豊富な人間関係を持っていて、車だけが足りないという状況ではないのだから。

ちなみに免許はある。なんなら大型二輪にも乗れる。それでいて自転車をこぎ続ける理由は、過去に事故を起こしてから運転していないことと、維持費の問題が大きい。一人身の上、休日にする買い物と暇つぶしくらいにしか用途がない鉄の塊にいくらも掛けたくないので未だに車は買っていない。

電車で難なく生活できるくらいの発展はしている土地の方が自分には合っているのかもしれない。

しかし、そうして住居を変えたとしても仕事の問題は何も解決してない。いつまでも工場での肉体労働を続けたいとは思わないが、なんの指針も見いだせない以上どこにも踏み出せない。それでも生活に際しての収入は必要なので場当たり的に作業所を選んでは年を重ねることを繰り返しているのが現状。なんだか書いてて憂鬱になってきた。

単純反復不熟練労働は、それに従事する労働者を企業から離れ難くさせる。

 

そういえば、あまりに暇なので1年半くらい前から始めた金融投資はトータルで90万くらいプラスになった。特にFIREだとか老後資金だとか深いことは考えていない、ただ増やせるから増やしただけ。個人的には60歳まで生き延びないと受け取れない年金システム(個人年金iDeCo)やら、しょぼすぎる金利の銀行預金よりは有益だと思っている。

ところで、最近なんとなくチャートを眺めていたら、自分が小学生くらいの頃に見かけた日経新聞を睨んでいるおっさんにどんどん自分も近づいてきているような気がした。

最近読んでよかった本

題名からしてふわふわしたことが列挙されているに違いないと思っていたが、読んでみると片付けコンサルタントを実施していた著者の経験談も踏まえてあり、とても充実してた内容になっていた。

この本に影響され、人生をときめかせるために早速週末に片付けを敢行した。ほとんど手荷物だけで今の住居に越してきたのだが、思いのほか物が増えていることに気が付く。特に本は180冊ほどあり、かなりのスペースを占有していた。

人生って複雑だね

荷物は増えてゆくの いらないはずなのに

片付けながらYUIのSimply whiteをなぜだか思い出した。あぁ、ほんとにその通りだなぁ。

 

夏の睡眠不足、溶けていく脳みそ

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最近、エアコンが壊れた。いや、壊れてた。

冷房18℃設定にしても生ぬるい風しか来ない。フィルターを掃除しても全く効果なし。製造年月日をみると2006年と書いてあるので、そもそも限界が来ていたのかもしれない。

早速派遣の担当に連絡し、エアコン業者を呼ぶことにしたのだが、多忙な時期ゆえに早くても週末での対応になるとのこと。

最悪なことに夜勤の週でこれが起こってしまった。つまり日中30℃を超える室内の中で睡眠をとらないといけないことが確定してしまったのである。

熱と戦う

そんなわけで30℃越えの室内の中で冷えピタ、冷却スプレー、冷却タオル、冷却ミストなどいろいろ試した挙句にエアコンには勝てないことを痛感した。そもそもスースーしてると気になって余計にイライラしてくる。部屋の中では常に半裸である。

もう部屋から出たらいいと思い、最寄りのカラオケで寝ようと思ったのだが、ソファが固いせいか涼しい割には全く眠れなかった。無限にリピートされる動画であのちゃんが新曲を出して湘南乃風が20周年を迎えていたことが判明しただけだった。

こうして毎日浅い睡眠を2~3時間とり仕事に行っていると。次第に空腹も感じなくなり、呂律も回らなくなり、ようやく週末にたどり着いたころには死の淵らしきものが見えるようになった。

現在、エアコン業者の対応が完了しエアコンを取り換えてもらって快適になったものの、バグった脳みそはなかなか戻らず、これを書いている今も睡眠不足真っ最中である。

2006年製のボロボロエアコン

睡眠不足とネガティブ

こうして睡眠不足に陥いると何故だか不安が無限にわいてきて、現実が容赦なく襲い掛かってくるような感覚に襲われる。

普段は強く意識しないのだが、知り合いもいない土地でひたすら食って寝て仕事をして朽ち果てていくのかもしれない現状に対する恐怖と虚無感がどっと胸に押し寄せる。

朦朧とする意識の中、りゅうちぇるの記事や二階堂奥歯の日記を読み漁っているとなんだか気分が落ち着いてくるから不思議である。

怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

まさにこんな感じ...とまではいかないが、なんだか気分が安らいでいるので、もはや正気ではないのかもしれない。

とりあえず冷房の効いた部屋で寝ることにします。

茨城の車窓から

GWもそろそろ終わり。ほぼ予定のない長期連休であったが故にいろいろと考えさせられることが多かったのでその想念を書いてみる。

グッバイ秋田

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実家を飛び出してから約1年。今はなんの縁もゆかりもない茨城の片隅で工場作業に励んでいる。ここに来たのには特に理由もないが、強いてあげるなら秋田より住みやすいのが主な理由である。

otuyanioyatsu.hatenablog.jp

当初の予定では1年ぐらいで切り上げて、また他の土地にさすらうつもりだったのだが、切り上げるタイミングがわからずダラダラしていたらもうその時が来てしまった。いつまで茨城に滞在するのか、その答えは未だ保留中である。

未開の地に放り出される生き方について

前述のとおり、現在住んでいる茨城という地は派遣会社の案内でテキトーに選んだだけなので、職場を除けば知り合いは一人として存在しない。おまけに仕事は残業が多くて、不規則な2交代制シフトなのでより一層プライベートは希薄になっていく。

そんなこんなでこの長期連休。プライベートがなかったかと思いきや突然膨大な時間を与えられたのだが、案の定よくわからないまま過ぎ去ってしまったような気がする。

もちろん一人なのでふとした瞬間なにやら深淵な気分になることが多かった。多忙にかまけていられた分もしかしたら仕事に助けられていたのかもしれない。閑暇な一人の時間が少々重荷になっているのに気が付いた。

これまで趣味だったオンラインゲームも辞め、少し前に暇なので副業でもやってみようかと思いたったがそれも一向にやる気が起きないので中途半端に手を出して辞めてしまった。

ギャンブルはやらない。風俗も行かない。酒も(ほとんど)飲まない。動画や配信も(そんなに)みない。

あまりにも無の時間が多かったので自転車でうろうろしたり、本を読んだり、それに飽きたらペン字練習帳をひたすらなぞり続けたりしていた。

獄中でひたすら写経に励む囚人はこんな気分なんだろうか。

以前の職場で45~6で独身の先輩に

「連休は地元に帰るんですか?」

と聞いたら

「いやぁ~帰んねぇかな。帰っても周りは結婚してて誰も遊んでくれねぇし、実家にいてもすることねぇしな」

との返答。

なるほど、僕は少しその境地にいたるのが早かったのかもしれない。

こちらの場合は20歳くらいのときに携帯を落として壊してしまい、それまでの連絡先を吹き飛ばしたのが原因で、地元の友人とはそれ以来連絡をとっていない。

ふと小学生のときに聴いたカントリーロードを思い出す。

youtu.be

カントリー・ロード

この道 故郷へつづいても

僕は 行かないさ 行けない

カントリー・ロード

当時よく分からなかったこの歌詞の深さが紆余曲折して27歳の自分に染み渡るとは思ってもみなかった。出稼ぎ派遣労働者に向けた曲ではないと思うが。

10年後も同じようなことをしているのだろうか。今こうして未来に思いを馳せると途端にげんなりしてきたので考えるのを辞めた。

なぜか最近目にしたマキアヴェッリの語録にて締める。

古の歴史家たちは、こういっている。

人間というものは恵まれていなければ悩み、恵まれていたらいたで退屈する。そしてこの性向からは、同じ結果が生ずるのだ、と。

自己啓発本は人生の攻略本なのか

現在「自己啓発本」というワードに好印象を持っている人は少ないだろう。

あらゆるところで内容の薄さが批判されていて、紙媒体のエナジードリンクだとか、校長先生の落書きだとか、高級な便所紙だとか、言われたい放題である。

しかし、ここまでこき下ろされておきながら、未だ死滅することのないジャンルとして確立されていることも確かなのである。

かつて僕自身もこの手の自己啓発本にハマっていたことがあり、最初に読んだのは小学校高学年のときだった。親がこの手の本をよく読んでいて、本棚に鎮座しているそれを何気なくめくっていたのだが、人生の成功を約束する文言は当時の僕のふやふやな頭にダイレクトに突き刺さったこうして、10歳そこそこでこの世の真理を知ったような気がしていた僕の頭の中はアンパンマンよりも単純であった。

その単細胞っぷりを思い出すのでしばらくの間、自己啓発アレルギーを発症していたのだが、この度その内容を直に研究するべく、世論よりも己の目で自己啓発本を刮目してみることにしたのである。

自己啓発の台頭

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初心に帰るべく、この言葉の意味をたどると読んで字のごとく「己を高める本」という意味である。そのまま意味を受け取るなら古典にも自己啓発本に該当するものは多い。

しかし今回は、多くの人が想像するであろう現代のビジネスパーソンに視点を向けたものを取り上げる。カバーか帯にデカデカと筆者の顔が写っているのが目印である。

これらの起源をたどれば1990年代~2000年代に自己啓発セミナー、新興宗教と時を同じくして流行したのが引き金となり、以後少しづつ形を変えて現在に至っている。それまで重んじられていた文化、教養といったものよりも、成功や幸福を重視しはじめる時代の流れが読み取れる。

 

あと、これは僕の偏見なのだが、自己啓発本をよく読む人は真面目な人が多いような気がする。真面目な人ほど明瞭な「答え」を求めがちだからであろうか?。

自己啓発に求めるもの

ここで、そもそも自己啓発本を手に取る動機について考えてみる。

近代化した人間が好きなキーワードは有用性即効性である。要するに、すぐに役に立つことが重要なのだ。多くの場合、役に立つとは、金を儲けることであり、人間関係を円滑にすることであり、仕事で成功することであり、恋愛を成就させることである。

これを踏まえると、古典や小説は「コスパ」が悪い。これらを読んだところで金になるかと言われれば必ずしもそうではないし、日常会話のネタにするならテレビやネットのほうが明らかに役に立つ。美しい文体や奇想天外なシナリオに感動する感性は、とくに生活を豊かにするわけではない。

そこで自己啓発本を見てみると、たしかに役に立ちそうな感じがする。あくまで内容は成功と幸福に関する抽象論だが、求めるものに対する答え、及びその道筋が示されているのである。試験対策には参考書を読むように、人生対策には自己啓発と言わんばかりの内容がてんこ盛りにされている。

 

直近で僕がたまたま見た本の内容は、現代人の頭の形にフィットした悩みと欲望をSEO対策するがごとき勢いで羅列し、デカ文字で不安を煽り、世間知にのっとった無難なアドバイスが授けられるものだった。どこぞのnoteがさまよって本屋に漂流してきたかのような印象を受けた。

悪いものでもない

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しかし、ボロクソに叩かれている割には、読んでみてそこまで悪いものでもないと思った。これを読んで明るく前向きになれるのであれば特に責められるようなものでもないだろう。それっぽい雰囲気を醸し出す技術に関してはなかなか興味深いものがある。

ものによっては、ジャンプの主人公を目指すかのごとき内容の本まであり、微笑ましいとすら思えてきた。多分作者の座右の銘は、友情、努力、勝利なのだろう。

 

宗教のようで気味が悪いという意見もあるが、実際問題、聖書や歎異抄のような宗教の原典は現に誰かを救っているので別に忌避することでもない。

ただ、自己啓発本を熟読して感化された人に、全能感を漂わせながら説教をされたら鬱陶しいかもしれないとは思った。

自己啓発に対する疑問

ところで、読んでいて疑問符が残る内容が多いことも確かなので、そのわだかまりを以下にまとめてみる。

成功について

ほとんどの社会的な成功は、誰かの失敗を意味することでもある。受験、入社試験、社内競争、マーケットビジネス、あらゆる賞や大会での入賞。そして、これらを勝ち取るということは、誰かの席をもぎ取ることなのだ。成功を目指すのは個人の勝手だが、競争に固執すればするほど結果のみを重視する単純な脳みそが出来上がりそうだと思った。

偶発性について

極端な話が、日本の大学受験生のうちの誰かは絶対に東大生になるし、アメリカのIT起業家を全員競わせれば誰かはビル・ゲイツになるのである

そうしたあらゆる頂点の人間を引き合いに出して物事を語っているのは、すこし嘘くさい。起業して成功した者はチャレンジ精神豊富な人が多いかもしれないが、それは起業して破産した人を調べても同じような傾向があるだろう。掘り下げてみると単なる結果論である。

彼らの能力が高いことは間違いないのだが、その結果を得るまでの要素はとても言語だけで説明できるような代物ではない。おびただしいほどの因果関係と、とても見渡すことのできない要因が絡み合って結果は発生するのであって、どうもその複雑さを説明しているようには見えなかった。

 

ちなみに、成功に関する考察で参考になった本がこちら。

投資家と書いてあるのだが、内容は個々人の成功と運に対する考察も含まれていて、とてもおもしろい。

 

この動画が結論です。

【公式】芸人やめてぇな #8「自己啓発本を書きてぇな」中山功太 - YouTube

人生は30年

最近、人生は30年で終わりといった趣旨の記事が話題になっていた。

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この「30年」に関して言及するのは野暮というものだろう。たとえ30年だろうと80年だろうと、将来への希望的観測、もしくは悲観的観測が主観によるものだという意見に僕は賛成である。

この人の場合は、会社員として労働力を売り続けることを念頭にした人生観が出来上がっているようにみえるので、それが人生に対する閉塞感に拍車をかけているのだろう。僕も二度ほど会社員をしたことがあるが、懲役としか思えなかったので心中は察することができる。

ただ、気になったのがこの記事に対するネットの反応である。この記事の中のコメントにもあるように、少しでも人生を前向きに捉えようとする反応が実に多い。カーネルサンダースリンカーンなどの晩年から花開いた成功者を挙げて、この記事のような人生観に否定的な意見を表明する人が噴出していた。

仮に「死ぬまで青春!人生は素晴らしい!生きてるって最高!」といった内容ならこうはならないだろう。

なぜこの記事のような人生観がそこまで反感を買うのか、それを考えてみた。

死ぬまで確かなものはない

たいそう残酷だが人生には確かなものなど無い。ある人は生まれてから死ぬときまで世間的な意味での幸運に恵まれ続けるし、またある人は誰からも見向きもされず路傍の雑草のようにひっそりと死んでいく。いかに人生が主観的なものだといっても、好んで雑草のような生涯を送りたい人間は少ないだろう。

そのため、その幸運を掴んだものに対する嫉妬や憎しみが生まれてくる。全ての人間に幸運が元本保証されていたら、誰も年齢など気にしないだろう。

この幸運に対する不安を実によく表している劇作家イヨネスコの一文

死なないこと、そうなればもうだれも人を憎んだりしなくなるだろう。もうだれも妬んだりしなくなって、愛しあうようになるだろう。無限にやり直しができるようになって、時折りなにかが実現されるようになるだろう。百年に一度、千年に一度は成功が訪れて、数が多ければ多いほど成功の可能性が出るだろう。われわれには無限に運試しをするだけの時間的余裕がないということをわれわれは知っている。憎しみはわれわれの不安の表現であり、時間が足りないことの表現である。妬みはわれわれが見捨てられはしないか、滅ぶべき人生において、すなわち、生においても死においても見捨てられはしないかという恐怖の表現である。

こうして「誰もが幸運に見捨てられたくない」ことを前提にすると前向きに物事を考える人の心理がよく分かる。「誰もが何歳であろうと花開く可能性がある」と信じたいのは、紛れもなくネットに書き込んでいる自分自身なのであり、その信念を揺るがす文言を発見するとポジティブワードをフリック(タイピング)せずにはいられないのだろう。もしかすると、人生が何歳からでも遅くないと強く主張する人ほど、人生に取り返しがつかないことを薄々感じ取っている人なのかもしれない。

誰だって生まれてから今日までの時間がただ無為に過ぎ去ったものとは考えたくないので、その人生になにか客観的な意味を与えてくれる瞬間を望むのは至極当然だと思う

前を向くことの難しさ

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ただ、率直な感想として、こうしたネガティブで建設的でない意見を聞くと、反射的に批判したくなる気持ちも分からんこともない。

ネガティブなことをブツブツ唱えていても、特に何かが生まれるわけではなく、ただただ無力感が生まれてくるだけだからである。楽にはなるかもしれないが、それ以上は望めない。往々にして、その意見もただ単なるポジショントークでしか無いことが多い。この記事にしても、この人のような人生を送ったら30歳でのこりの人生が見えたような気分になるというだけのことである。「これくらいの年齢になると自分の実力がどの程度かってわかってくるじゃない」という言葉は単に視野狭窄から生まれた言葉であり、自分の可能性を広げることを諦めたその瞬間からこの言葉は真実になったのだろう。冷静にかんがえて、30歳以上の日本人は9000万人以上にのぼるが、その全員が「自分の実力」をわかっているとは到底思えない。

あと個人的な意見を申せば、消化試合に差し掛かった人生のことを「どう死ぬかを考える時間」と書いているが、明確に死を意識するような状況でもない限り、誰もが電車の通過時刻のように世を去るわけではないので考えるだけ無駄だと思ってしまう。もっといくと、生きてる内に墓石や戒名のことを考えて胸をときめかせる人の気持ちも全く理解できない。墓石屋と坊主が儲かるだけだと確信している。

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それはさておき、こうして無意味なことを考えるのはやめて少しでも建設的に物事を考えたほうがいいと思っていながらも(その方が好かれる)、誰もがいつも前向きにポジティブに明るく楽しく物事を考えられるかと言えばそこにもまた疑問符がつく。人間社会はそこまでキレイにできていないのは明らかであり、どこまでも自分の人生に可能性を感じられる「強い」人ばかりではないのも事実なのだ。

このように考えてみると、中途半端な諦観をつぶやきながら、これぞ人生の真理である、と考えるぬるくて欺瞞的な「弱さ」こそが多くの人の反感を買うのであろうが、これこそ最も致命的で解決方法がない欠点であるように思った次第である。

 

「弱さこそ、ただ一つ、どうしても直しようのない欠点である。」