あんぽんたんの日記

四半世紀生きました

祭事地獄

明けましておめでとうございます。

正月、母親がつくったお雑煮を食べながら、毎年、餅は老人を冥土に送っていることを思い出した。いつも思うのだが、ここまで和やかに人を殺す日本食は珍しい。年明けと同時に天国の幕開けである。

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元日から葬式の準備にとりかかる遺族はさぞかし忙しいだろうと思う。

いきなり冒頭からあの世の話をするくらいに僕は年末年始の空気に疲れた

年末の絶望

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年終わりから年明けにかけては祭事や宴会が多い。クリスマス、忘年会、新年会、正月、帰省先での飲み会等々。外出したら、いつもよりも賑やかな空気がそこかしこに漂っていた。

しかしこの期間、僕が関わった人間は家族のみでとくに面白いことはなかった。

僕が中学生くらいのころ、この季節に公園でワンカップをあけるオヤジをみていつも不思議に思っていたのだが、今ならそのオヤジの気持ちがよく分かる。家にも外にも居場所がないのだろう。

こうして人間は無敵になっていくんだろう、しみじみそう感じた。

はやく核兵器を使った花火大会が始まってほしい。

比較はやめるべき?

家族がいるだけいいのかもしれない、友達がたくさんいることがいいことではないかもしれない。そんなつぶやきが慰めのように湧いてくる。実際、なにやらありがたそうな人生訓を散見していると、「人と比べるのをやめましょう」という教えは多い。

僕自身、10代前半の頃は「植物になりてぇ」とか「はやくジジイになりてぇ」といつも思っていた。こうした境地に至れば、煮えたぎらんばかりの劣等感や情動から開放される気がしていたのだ。

なので、世捨て人による古典『方丈記』、『徒然草』なんかに通づる厭世観は、著者の見識が深いこともあり、とても共感できる。

しかし、最近の心境の変化として、このように達観して悟りを開いてしまったら、それこそ全てが味気なくてつまらないものになるのではないかと思った。また、このような隠居に至らずとも、ある程度人生を生きると、多くの人が人生の妥当な落とし所を考え始める。

その典型的な文言として、「凡人には無理ですよね」「年取ると色々考えちゃうよね」「ほどほどがいいよね」「普通が一番」などが挙げられる。僕はこうした分相応をわきまえた発言を見るたびに、その人の人生が余生に差し掛かっているような哀愁をかぎとってしまう。いや、それでも一向にかまわないのだけど、あまりにも普通すぎて面白くはない。

よって、あえて小学生の如き精神構造にとどまりつつ、生き恥を晒し続ける生き様も悪くないと思うようになったのだ。そのほうがあほらしくて面白いから。

あえて猿を目指す

この動画は、動物も不平等を感じるかどうかの実験映像である。

2匹の猿を仕切った檻の中に入れて、向かって右の猿にぶどう(おいしい)をあげて、左の猿にはキュウリ(しょぼい)をあげると、左の猿が怒り始める。怒り方がかわいい。

youtu.be

これをみて、たかだか人間関係に恵まれない「程度」のことでネチネチ書いている僕の中身は、左の猿と大して変わらないのかもしれないと思った。

お祓いをうける

元日は神社にいってお祓いを受けてきた。実家にいなければまず行くことのないイベントである。

この行事を冷静に考えてみて、古代のエジプト人が決めた日付に沿って、これまたよくわからない昔の人が神社で行っていた慣習を儀礼的になぞるだけだと真っ先に考えてしまう人間には、信仰心もなにもあったものではない

そんなこんなで神社に向かい、神主が白いふさふさを振り回して呪文を唱え終えた後、願い事を祈るタイミングがあったのだが、何も思い浮かばず、「仕事がみつかりますように...いや、仕事したくないな...なんかもうどうでもいいやぁ」となげやりなことを祈ってしまった。

おみくじは中吉。

締めの言葉が思い浮かばない。なんかもうどうでもいいやぁ