あんぽんたんの日記

四半世紀生きました

孤独と生活

最近、AmazonUnlimitedでKindleを介して本を出版している個人の電子書籍を読むのにハマっている。色んな人が人生の実体験を元に文章を練っているのは中々見応えがある。やはり面白いのはいかにも金のために書かれたライフハック系のものよりも自分の人生を赤裸々に語ったものである。

仕事の休憩中につまみ読んでいくと、何故だかよくおすすめに出てくるのは結婚諦めましたとかいう中年男性の手記である。これは僕の未来への暗示だろうか。

読んでみると、若かりし頃に既成の結婚観に手を伸ばし、男女交際や婚活に疲れ果てた末に独身を選び、胸をなでおろすまでの過程が克明に記されている。大体の内容が、お互いに値踏みに次ぐ値踏み、それが終わると腹の探り合いである。なかなかに精神をすり減らしそうな営みだと想像できる。

結婚して一人前という価値観や未来の孤独に対する恐れが彼らを突き動かしているようだが、孤独とは一体何なんだろうか。少し考えてそれを定義するのは自分の手に余ると確信したので、ここでは一般的に言われる「一人で寂しい状態」を孤独としてみて論を進めることにした。

現代の孤独観

昨今、孤独を問題視する傾向があるように思われる。最近の研究によると孤独というのはそれ自体が健康を損なう大きな要因になりうるらしい。孤独による暴飲暴食でもなく孤独による薬物摂取でもなく、孤独そのものが原因なのだ

これは少し奇妙に思える。

なぜなら飲酒や喫煙が健康を損なうのはアルコールやニコチンといった物質的な要因が元になっているのに対して、孤独とは個々人の解釈に依拠する部分が極めて大きい。誰かはある状況で痛烈に孤独を感じたかと思えば、誰かにとっては一人でくつろげる安らぎの時間だったりする。化学物質のように客観的な測定基準をもたないのでどうにも掴みどころがない。ただ一人でいるだけなのか、それともそれは孤独なのか。多様な解釈を膨らませて自らを痛めつける前頭葉の力は生存装置としては優秀なのだろうが、人間を幸福するようには作られていないようだ。

そして、その解決は形のあるものにはなりえないのではないか。

病気の人に薬を与えるように、怪我人に手術をするように、孤独な人に他人を与えたら問題は解決するのだろうか。いや、殆どの場合しないだろう。孤独を治療するために必要な信頼は義務や強制では得られないからだ。

日本政府が孤立・孤独対策本部とかいう大仰なものを設置して何やら画策しているようだが、少子化対策と同様にそもそも解決可能かどうかも分かっていないのではなかろうか。御大層な標語だけが独り歩きしている印象を受ける。

「孤独は山になく街にあり」

という三木清の言葉にしたがうなら、対処としてふさわしいのはボランティア的空間を提供してより集まることではなく、むしろ通信環境から遮断されている人里離れた田舎に住む方が孤独からは逃れられるのかもしれない。

また、こうして孤独が問題視されるなかで、その逆、人間関係によるいさかいは人類が誕生してから現在に至るまで全く解決の日の目を見る気配はない。膨大なストレスによる健康被害を発生させるうえ、詐欺や横領や殺人など孤独死より遥かに厄介な事態が有史以来幾度となく繰り返されているが、対人関係対策本部は作られる気配すらない。その代わり、至るところに有償のカウンセリングや対人関係のハウツーが跳梁跋扈していることを考えると、人間関係の不満というのは立派な飯の種である。

金と孤独

少し視点を変えると現代は孤独で悩むことができるようになった時代とも言える。効率化された大量生産による生活必需品のコストダウンによって現代の悩みはただ生き延びることではなく、どう生きるかにシフトした。生活の為に仕方なくしていた結婚も、今や個人の自由意志の方が尊重される。何せ家電で家事は済むし、食事だって冷凍食品や安いチェーン店でいくらでも腹を満たすことができる。

金と技術の発展のおかげで面倒臭い生の人間を相手にとって解決しないといけない問題はどんどん減ってきている。しかし、金は良くも悪くも人間的な部分を浄化してしまう。味気ないが、さっぱりしている。このさっぱりした部分が現代的な孤独の悩みに直結しているのだろう。

「咳をしても一人」

とは晩年の孤独を表現した尾崎放哉の一句である。現代ならネットで風邪薬でも注文すれば済んでしまう問題だろうが、おそらく言いたい事はそうではないだろう。咳が収まっても一人なのだから。

昔聞いた話だが、子供が生まれてから成人するまでにかかった養育費用を事細かに記録し、成人した子供にその額を請求した親がいたらしい。その子供は何年もかかってその費用を返済した後、その後親とは一切関わりを持つことはなかったそうだ。

これは金を介した繋がりを如実に表している。この親にとっての子育てとはすなわち金銭的対価を要求する労働だったのだろう。

対して金を払わず人間関係のみを依り代にすると、その仕事は目に見えない貸借対照表に刻まれる。そして、その貸し借りのバランスが崩れると関係も悪化する。

親族の縁然り、友人関係然り、恋人関係然り、ドロドロしたやり取りに発展するのは大抵金で解決できない問題である。よくある金銭トラブルも、金そのものはキッカケに過ぎず、原因は信頼を裏切ることによって発生する。

お互いに合意できる金銭的契約があれば誰も卑屈になる必要はない。その意味で金は自由と尊厳を与えてくれる素晴らしい発明である。しかし、それと引き換えに人間を商品に変えてしまう力も持っている。極論すれば金を払った依頼主が期待するのは人間性ではなく問題解決に至るスキルや労働力なので相手の内面には興味がない。誰も人間に興味を持たない、それで世の中が回っているのだとしたらなんとなく孤独が蔓延するのも分かる気がする。

無論、どんな人間関係にも大なり小なり妥協と忍耐が要求されるもので、誰もが孤独を感じない、いや感じることのできない世の中が仮に実現したらそれはそれでとてつもなく風通しの悪い環境なのだろうが。

逆境無頼カイジ

最近アニメのカイジを見直しているのだが、カイジがしていたコンビニバイトの同僚である佐原が闇金の遠藤に語ったセリフが妙に耳に残った。

「俺たちみたいなプーが浮かび上がろうと思ったら、どこかで一発当てるしかない。でなきゃ風穴なんか開かない。世間に入っていけないんだって」

なんだか彼の言葉が我が身につまされるようである。何も成すことなくフラフラしている人間に対する世間の冷たさを、孤独を、佐原は理解している。設定上、佐原の年齢は20歳以下ということだが、年齢より大人びている気がする。

ちなみに佐原はその後の超高層綱渡りで『消滅』することになる。

そこでふと思ったのだ。世間に入っていけないままダラダラ年を重ねて小さくまとまって死んでいくのと、逆転の目にかけて望み叶わず消えていくのとどっちがマシなのだろうかと。一瞬でも逆転を夢見ることのできた彼は幸運なのかもしれない。