あんぽんたんの日記

四半世紀生きました

人生は30年

最近、人生は30年で終わりといった趣旨の記事が話題になっていた。

f:id:akitaa:20220114014023j:plain

この「30年」に関して言及するのは野暮というものだろう。たとえ30年だろうと80年だろうと、将来への希望的観測、もしくは悲観的観測が主観によるものだという意見に僕は賛成である。

この人の場合は、会社員として労働力を売り続けることを念頭にした人生観が出来上がっているようにみえるので、それが人生に対する閉塞感に拍車をかけているのだろう。僕も二度ほど会社員をしたことがあるが、懲役としか思えなかったので心中は察することができる。

ただ、気になったのがこの記事に対するネットの反応である。この記事の中のコメントにもあるように、少しでも人生を前向きに捉えようとする反応が実に多い。カーネルサンダースリンカーンなどの晩年から花開いた成功者を挙げて、この記事のような人生観に否定的な意見を表明する人が噴出していた。

仮に「死ぬまで青春!人生は素晴らしい!生きてるって最高!」といった内容ならこうはならないだろう。

なぜこの記事のような人生観がそこまで反感を買うのか、それを考えてみた。

死ぬまで確かなものはない

たいそう残酷だが人生には確かなものなど無い。ある人は生まれてから死ぬときまで世間的な意味での幸運に恵まれ続けるし、またある人は誰からも見向きもされず路傍の雑草のようにひっそりと死んでいく。いかに人生が主観的なものだといっても、好んで雑草のような生涯を送りたい人間は少ないだろう。

そのため、その幸運を掴んだものに対する嫉妬や憎しみが生まれてくる。全ての人間に幸運が元本保証されていたら、誰も年齢など気にしないだろう。

この幸運に対する不安を実によく表している劇作家イヨネスコの一文

死なないこと、そうなればもうだれも人を憎んだりしなくなるだろう。もうだれも妬んだりしなくなって、愛しあうようになるだろう。無限にやり直しができるようになって、時折りなにかが実現されるようになるだろう。百年に一度、千年に一度は成功が訪れて、数が多ければ多いほど成功の可能性が出るだろう。われわれには無限に運試しをするだけの時間的余裕がないということをわれわれは知っている。憎しみはわれわれの不安の表現であり、時間が足りないことの表現である。妬みはわれわれが見捨てられはしないか、滅ぶべき人生において、すなわち、生においても死においても見捨てられはしないかという恐怖の表現である。

こうして「誰もが幸運に見捨てられたくない」ことを前提にすると前向きに物事を考える人の心理がよく分かる。「誰もが何歳であろうと花開く可能性がある」と信じたいのは、紛れもなくネットに書き込んでいる自分自身なのであり、その信念を揺るがす文言を発見するとポジティブワードをフリック(タイピング)せずにはいられないのだろう。もしかすると、人生が何歳からでも遅くないと強く主張する人ほど、人生に取り返しがつかないことを薄々感じ取っている人なのかもしれない。

誰だって生まれてから今日までの時間がただ無為に過ぎ去ったものとは考えたくないので、その人生になにか客観的な意味を与えてくれる瞬間を望むのは至極当然だと思う

前を向くことの難しさ

https://1.bp.blogspot.com/-96vhzCQxEIE/X9GYW9NYw0I/AAAAAAABcwQ/zWF4YAD-AcMP5gpiKIihh2l2wuA2cdthwCNcBGAsYHQ/s400/skydiving_instructor.png

ただ、率直な感想として、こうしたネガティブで建設的でない意見を聞くと、反射的に批判したくなる気持ちも分からんこともない。

ネガティブなことをブツブツ唱えていても、特に何かが生まれるわけではなく、ただただ無力感が生まれてくるだけだからである。楽にはなるかもしれないが、それ以上は望めない。往々にして、その意見もただ単なるポジショントークでしか無いことが多い。この記事にしても、この人のような人生を送ったら30歳でのこりの人生が見えたような気分になるというだけのことである。「これくらいの年齢になると自分の実力がどの程度かってわかってくるじゃない」という言葉は単に視野狭窄から生まれた言葉であり、自分の可能性を広げることを諦めたその瞬間からこの言葉は真実になったのだろう。冷静にかんがえて、30歳以上の日本人は9000万人以上にのぼるが、その全員が「自分の実力」をわかっているとは到底思えない。

あと個人的な意見を申せば、消化試合に差し掛かった人生のことを「どう死ぬかを考える時間」と書いているが、明確に死を意識するような状況でもない限り、誰もが電車の通過時刻のように世を去るわけではないので考えるだけ無駄だと思ってしまう。もっといくと、生きてる内に墓石や戒名のことを考えて胸をときめかせる人の気持ちも全く理解できない。墓石屋と坊主が儲かるだけだと確信している。

https://3.bp.blogspot.com/-DB6Mfh2Y5y4/UWyk49i6-mI/AAAAAAAAQoE/41lKUl9TrNE/s400/ohaka.png

それはさておき、こうして無意味なことを考えるのはやめて少しでも建設的に物事を考えたほうがいいと思っていながらも(その方が好かれる)、誰もがいつも前向きにポジティブに明るく楽しく物事を考えられるかと言えばそこにもまた疑問符がつく。人間社会はそこまでキレイにできていないのは明らかであり、どこまでも自分の人生に可能性を感じられる「強い」人ばかりではないのも事実なのだ。

このように考えてみると、中途半端な諦観をつぶやきながら、これぞ人生の真理である、と考えるぬるくて欺瞞的な「弱さ」こそが多くの人の反感を買うのであろうが、これこそ最も致命的で解決方法がない欠点であるように思った次第である。

 

「弱さこそ、ただ一つ、どうしても直しようのない欠点である。」