問題集を買うまでの経緯
最近、他のブログでも記事を書いているのですが、その際に自分の文章があまりに稚拙なことに気が付き、これは文章を学ぶ必要があるかもしれないと思い、中学生用の国語の問題集を買うことにしました。
文法のどうでもよさ
当然ながらこの本を買った理由は文章を学ぶためなので、古文や漢字はすっ飛ばし文法の欄を少し解いてみたのですが、あまりにどうでもよすぎて涙が出そうになりました。
二つ以上の文節が集まって、一つの文節と同じ働きをするとき、これを連文節といいます。連文節となった文の成文は、「主部」「述部」のように「~部」とよびます。
本文抜粋
かぁ~!どうでもよ~~~い!
こんな知識を披露して褒められるのは、地球上で「教室」という場所だけだと確信します。
もしかしたら、鼻にかけた縁の細いメガネをくいっと上げながら、インテリ自慢するのに使える可能性はわずかに残されていますが、人生で数秒あるかないかの瞬間の為にこんなものを頭に詰め込まされる中学生が可哀想だと思いました。
僕は、学生時代ほとんど勉強しなかったので、可哀想なことをせずに済んでよかったと安堵しました。
文法を定義するくだらなさ
一体全体、どんな人間が文法を定義しようと思い立ったのでしょうか。
法律、学会の論文などは、普遍性が求められる以上、厳密に書かざるをえない文章なので、そのために文法を習うというのは少しは有意なのかもしれませんが、世の中の9割以上の人間はそんなものについて書く人間ではないです。
はるか昔、文明と共に言語が発生し成長してくる過程で、
「よし、次は形容動詞をつくろう!」
と先祖が考えていたとは到底おもえません。文法から言葉を覚える赤ん坊がいるのならば見てみたいものです。
自然発生的に生まれ、成長してきた言葉の仕組みを説明するのに便宜上つくられたのが文法であって、こんなものが無くても世界はなんの不自由もなく機能していくことでしょう。
先祖の言葉を研究するのが大好きな文法オタクよりも、上手に言葉をつかっている人はたくさんいるに違いない。そう思いました。